★近親相姦を巡る鮮やかな物語
二人の男女が疲れきった表情をして、同じ部屋に佇んでいる。……とくれば、これはもう恋人どうしの別れ話の場面だろうな、と想像がつく。女は明日立つと言っている。男は行かないでくれと懇願する。この女性はわざわざ明日旅立つことを宣告するために、男をこの部屋に呼び出したのです。
マルグリット・デュラスの戯曲「アガタ」は、そんな矛盾に満ちた逢い引きの場面から始まります。ところが読み進めるうちに、二人は同じ母から生まれ落ちた、れっきとした兄妹であることがわかってくる。つまり二人は近親相姦的な関係にあり、その関係を断ち切るために、いまここで会話を交わしているのです。
二人が兄妹であることは、比較的冒頭の部分で明かされます。従って読む方の関心は当然「その出来事」がいつ、どこで、どう起こったかに集中します。二人の会話は次第に過去へと遡りますが、なかなか「その出来事」に辿り着きません。読者はやきもきしながら会話を見つめ、読み進めていくことになります。
そして終盤、ついに「その出来事」が起こった場所が明らかになります。ここは非常にごくあっさりと書かれているので、注意深く読まないと読み飛ばしてしまいそうです。ネタバレになると面白くないので、ここではヒントだけ記しておきましょう。「その出来事」が起こったのは、この世に実在する場所でありながら、この世のどこにも存在しない場所です。それは我々がごく日常的に見知っている場所でありながら、決してその内部には入って行けない、特権的なある「場所」なのです。
★恋愛の不可能性を巡る物語
このように「アガタ」に登場する二人の会話は、この「どこでもあり、どこでもない場所」で起こった出来事を巡って交わされ、そこに辿り着いた瞬間に終わりを告げます。この空虚な会話を交わすために、二人はこの部屋で逢い引きし、そして別れていくのです。
結局「その出来事」は、実際に起こったのか起こっていないのか、どちらなのでしょうか? ある意味でそれは現実に起こったとも言えますし、ある意味では起こっていないとも言える。別の言い方をするならば、この世界からもっとも離れた無限遠点のような場所で「その出来事」は起こったのです。
ラブストーリーとは一般に、一組の男女が結ばれるまでの物語です。恋人たちの行方には、往々にしてさまざまな困難が立ちはだかります。恋敵、無理解な親や世間、身分の違い、戦争、行き違い、同性への愛、などなど……。私たちがラブストーリーを読む際に楽しんでいるのは、その恋愛がどのように妨げられ、延期されるかということです。つまり私たちはラブストーリーの名において、実はむしろ「恋愛の不可能性」を楽しんでいるのです。
本作「アガタ」で描かれているのは、こうした「恋愛の不可能性」の、いわば究極の姿です。そこでは愛はとうの昔に過ぎ去った出来事であり、それは無限遠点の彼方で一度きり、だが永久に演じ続けられる出来事として描かれています。そして二人はその場所に辿り着くことを、永遠に拒否し続けるのです。
★古代から描き続けられる近親相姦
そもそも近親相姦は、ほかの恋愛における障害と違って、永久に乗り越えることが不可能なものです。どんな恋愛の障害であれ、たいていは乗り越えることが可能ですが、近親相姦だけは二人が結ばれても決してハッピーエンドにならない。永久に成就することがなく、成就したとたん「人外」と呼ばれるほかない「不可能性の恋愛」。近親相姦は恋愛における、いわば究極の障害である同時に、無限遠点でこそ成立しうる、究極の愛でもあるのです。
このため近親相姦は、実に多くの文化的表象で取り上げられてきました。古くはギリシャ悲劇の『オイディプス王』や、我が国における『古事記』における、イザナギとイザナミの兄妹愛がそうです。また『源氏物語』でも、主人公の光源氏が、母親に生き写しの義理の母親、藤壷と密通する場面が描かれています(つまり実際の母子ではないが、無限に母子相姦に近似した恋愛というところがミソ)。
近代になるとこれはもう無数にあります。寺山修司の映画や戯曲は、その多くが母子相姦を描いていますし、中上健次の小説『枯木灘』では、江州音頭の「兄妹心中」を反復するかのように、兄妹で愛しあう悲劇を描きます。逆に漫画家の手塚治虫は『火の鳥 望郷編』のなかで、母子相姦をおおらかに肯定してみせましたし、あだち充のマンガ『みゆき』は「血のつながらない兄妹の恋愛」を描いて、いにしえの『源氏物語』の変奏曲を、見事に奏でてみせました。
このように近親相姦は、究極に禁止された恋愛であるが故に究極の恋愛でもあり、実に多くの恋物語を生むイメージソースとなってきました。デュラスの手になる本作もまたその一つ。それは近親相姦という究極の愛の形を通じて「恋愛の不可能性=恋愛の可能性の中心」を描いたものなのです。
★青少年育成条例と近親相姦
さて現在、東京都では「青少年育成条例改正案」というものが審議されており、これが通過するとマンガやアニメで近親相姦を描くことが禁止されるのだそうです。対象となるのは条例成立後の作品なので、いきなり『火の鳥』や『みゆき』が発禁になることはありません。が、こうした作品の後継は、二度と出てくることができなくなります。
そもそも私はマンガやアニメの性表現を、法律で取り締まること自体に反対ですし、虚構中の登場人物に法律遵守を求める条例などというのは、まさに「マンガと現実の境目の区別がつかなくなった」人々の、噴飯ものの発想の産物であると考えています。
なかでもこの条例が、禁止の筆頭として近親相姦を挙げていることに、私は強い違和感を覚えます。近親相姦は既に述べた通り、究極に禁止された恋愛であるが故に究極の恋愛のかたちでもあり、そこからは無数の恋物語が生まれました。くだんの条例の発案者は、文化的表象に対して無知であるか無関心であるか、その両方でしょう。こんな人々に青少年の健全育成が可能とは思えません。
本作は近親相姦を通じて極限の愛のかたちを、もっともよく原理的に示した作品ですが、こうした作品が今後マンガやアニメの形ではいっさい登場しなくなるということを是非、文芸読者にもご理解いただきたい。他ジャンルの危機はいつか必ず文芸にも降りかかります。意思表示と行動をお願いします。