★内面や思想を持たない主人公
『ポポイ』というのはギリシャ語の感嘆詞なのだそうで「おお」とか「ああ」とかいった意味の言葉だそうですが、本作の主人公は自分が飼っているペットに、この言葉を名前としてつけます。さて、それではこの主人公が飼っているペットとは、一体どんな動物なのでしょう? 犬でしょうか? 猫でしょうか? それともほかの動物なのでしょうか?
実は彼女のペットとは、テロリストの「生首」です。主人公の祖父は引退した政治家ですが、ある日この政治家が二人組のテロリストに襲われ、犯人の一人はその場で切腹。仲間によって介錯され、首を斬り落とされてしまいます。ところが発達した医学によって、斬り落とされた首は生き続け、首だけの人間になってしまう。主人公はこの生首の世話をするのです。
祖父を襲ったテロリストの首ともなれば、孫娘は怒りにうち震えて抹殺を考えても良さそうですが、彼女は全く動じません。そもそも本書の主人公は、近代的自我や内面的葛藤とはほとんど無縁の人物。彼女は生首を興味津々で受け入れるばかりか、その首を家族と囲んで、食事さえしてみせます。
また、この主人公は政治的イデオロギーとも無縁です。彼女はこの首の持ち主が生前に起こした、テロの動機すら聞き出そうとしません。「切腹したテロリスト」と言えば直ちに連想されるのは三島ですが、三島についての思索もあっさり投げ出し、今回のテロは「そのお粗末なコピー」と切り捨てるのです。
★サティを聴きながら生首を飼う
祖父を狙ったテロリストの首を、主人公はひたすら愛で続けます。男性用のパックを施してみたり、古代ローマ風の髪型にしてみたり。雨の多い冬、ドビュッシーやサティ、クルト・ワイルを聴きながら、まるで球根の栽培でもするように、彼女は生首との暮らしを続けるのです。
いっぽう襲われた方の主人公の祖父も、脳梗塞となって倒れるものの、奇跡的に意識を回復。ワープロを使って筆談するまでに回復を遂げます。首だけとなって生き続けるテロリストと、その逆に脳にダメージを受けながらも生きながらえる政治家の祖父、そこに主人公をくわえた三拍子のリズムで、物語は進行します。
本書における主人公は、心理的にも政治的にも葛藤を抱えていません。しかも彼女が対話を交わす人物は、いっぽうは首だけ、他方は脳梗塞で寝たきり。このため本書の作中では、劇的な事件がほとんどない。「生首を飼う」というおどろおどろしいモチーフとは逆に、物語は静謐な筆致で描かれていきます。
ただし作者はエロスという不協和音をそこにくわえて、微妙な彩りを添えてみせます。交通事故などで四肢を失ったのちも、腕や脚の存在を感じる「幻肢」という現象がありますが、この首は斬り落とされてのちも、幻肢ならぬ「幻身体」を感じており、性的興奮や射精の感覚を味わっています。主人公はそれを知って、首の前で全裸になってみせ、密かな興奮を覚えるのです。主人公と生首が幻の身体を通じて欲情しあうこの場面からは、生々しさのないエロティシズム、陶器でできた裸体を見るかのような、硬質なエロスが伺えます。
★斬り落とされた首の「愛」
ルネサンス期以降の西洋美術では、しばしば「男の首を斬り落とす女の像」が描かれます。一つは有名なサロメ、もう一つは本書でも紹介される「ユディット」という女性のモチーフです。ユディットは旧約聖書に出てくる女性で、敵の王様を色香で誘惑し、油断した隙に首を斬り落とした人物です。
サロメにせよユディットにせよ、男から見れば死をもたらす恐ろしい女性ですが、どういうわけか多くの画家がこのモチーフに惚れ込んで、憑かれたように描き続けました。ちなみに本書に登場するのはクラナッハという画家の描いたユディットです。けれども私個人の趣味で言うなら、むしろクラナッハのものよりも、ジョルジョーネという画家の描いたユディットのほうが、本書には似つかわしいような気がします。
ジョルジョーネの描いたユディットは、慈母観音のように穏やかな顔。画面全体にも靄のかかったような静けさが漂っています。ところが彼女はその脚で、斬った頭を踏みつけています。しかも踏まれている首の顔には、うっすらと笑みが浮かんでいるのです。ここにあるのは紛れもなく「愛」の姿だと私は思います。それは異形のものではあるとはいえ、明らかに愛のかたちなのです。
愛とは一体なんでしょうか。それは頭脳が生み出すものでしょうか、それとも肉体が生み出すものなのでしょうか。そのいずれでもないような気が私にはします。頭脳でも肉体でもない、霊と肉の中間の場所、本書で言うならこの生首が感じている「幻身体」のような場所から、それは生まれてくるもののような気がします。本書の描く幻の射精は、そうした愛の不思議さを描いているのではないか。そんなふうに私は思うのです。
★脳化社会のカリカチュア
ちなみに本書の刊行は1987年で、インターネットなど影も形もなく、パソコンすらほとんど普及していない時代です。いっぽう本書の舞台は21世紀。つまり本書は「近未来SF」として書かれているわけです。
ところが本書に描かれる光景は、現時点から見てもかなり正確な予測となっています。メールによる画像データのやり取り、テレビ電話や携帯端末。こうした情報技術以外にはなんら世の中が進歩しておらず、養老孟司のいわゆる「脳化社会」になっているという点も、非常にリアルな予測です。出会い系サイトが乱立し、セックスがごく気軽に消費されるようになり、愛が希薄化した社会という予測も、かなり正確なものだと言えるでしょう。
首だけになったテロリストは、脳化社会を戯画化したかのような存在で、その意味でも本書は予見的です。生身の身体や「幻身体」を失ったあと、人はどのような存在になり、愛はどのような姿となるのか。いままさに私たちが直面しつつある問題について、本書は思索を巡らせているのです。
幸いなことに私たちはいまのところ「首だけ人間」にはなっていませんが、完全な首だけ、脳だけの存在となった本書のテロリストは、本書の終盤でゆっくりと破局へ向かっていきます。ひょっとすると私たちもまたこの首のように、緩慢なフィナーレへと進んでいるのでしょうか? 是非ご一読いただいて、読者諸氏のご意見を伺いたいところです。