私はよく盗聴をしている。盗聴といっても、盗聴器を仕込んで相手の秘密を握ろうとするような犯罪めいたことをするわけではない。街中や飲食店、何かの行事など、人が多く集まる場所において周囲の人々の会話を聞き、その内容を記憶してしまうのだ。自分が会話に参加しているわけでもないのにである。気持ち悪い、悪趣味と思われるかもしれないが、記憶力と聴力がいいために、嫌でも人間盗聴器となってしまうのだ。許してほしい。ただ単に独り身の人見知りで、周りの話を聞く以外することがないだけという説や、そんなことしている暇があるのなら、誰かと話す努力をしろというお叱りの声もあるが、まあ無視しよう。
そんな私が、これまでの盗聴経験の中で発見したことがある。それは、会話の中で最も話が通じやすく盛り上がる話題が何であるかだ。一般的に“仕事”や“恋”などを想像されるかもしれないが、どちらも違う。年齢や経験値によってかみ合わないケースも多く、話したがらない人も多い。正解は“死”についてである。
死自体について語ることは、あまりにも深遠であり、まだ生きてもいるのだから難しい。しかし、死を意識したことについてならいくらでも話すことはできる。何せ、大事故でも重病でも、単なる風邪でも軽く足を痛めただけでも、“死ぬかと思った”のであれば立派に“死”に関する話として成立してしまう。しかも“死”に対して、人間は誠実でまじめだ。子供でも大人でも全員が間違いなく経験することであり意識もしていることなので、聞き手は我が事のように聞いてくれるし共感も得やすい。ほとんどの人は会話の中で話題のないときに、“死ぬかと思った”エピソードを一度は話したことがあるという事実を否定できないはずだ。
しかし不思議なのは、誰もが死ぬ手前の話ばかりしていて、死んだ後についてあまり話さないということである。“死んだら後には何も残らない”とか、“死ねばさっぱりする”という一言で済ませてしまう。それで本当にいいのだろうか?死んだ後についても語るべきことは多くあるし、いつまでも生きている段階に留まってはいけない。これからは死んだ後のことも、積極的に話題にするべきではないだろうか。話の種はあらゆる所に潜んでいる。
たとえば、多くの家庭に1台は置かれているであろうパソコンである。データを消さずに死んでしまうと、家族や友人にパソコン内の私的なメールや日記・写真を見られて厄介なことになるかもしれない。死んだ後に“あいつ変態だったのか”と思われたり、“あいつ意外と恋人にはツンデレだったのか”と言われるのを想像して恥ずかしくはならないいだろうか?そうはいっても、突然死んでしまっては消去もできない。ではどうすればいいのか?
絲山秋子の芥川賞受賞作「沖で待つ」は一風変わった解決方法を提示している。住宅設備機器メーカーの営業ウーマン及川はある日、同期の男性社員“太っちゃん”こと牧原に風変りな提案を持ちかけられる。それは、どちらかが死んだ時には生きている方が相手のパソコンのハードディスクを壊して、データを閲覧不能にするというもの。同期として牧原を信頼する及川は協約に同意して家の合鍵を交換、やがて本当に不慮の事故で牧原が死亡すると、家に忍び込んでハードディスクの破壊を実行する。ところが及川は、ひょんなことからデータの中身についての意外な事実を知ることになる。ここで注目したいのが、データの中身もさることながら、パソコンのデータを消してもらうために合鍵まで渡してしまう、仕事を通じて築きあげた及川と牧原の強固な信頼関係だ。そのような無理な願いを聞いてくれるだけの信頼に足る人物がいるかどうか、本書を話題にしつつ探してみるのも一興ではないだろうか。
他に忘れてはならないのが、お金の問題である。身内でなくとも、どこかの富豪が死んだというニュースを見て、遺産はどれくらいあるのかと考えた経験はないだろうか?バルザック「人間喜劇」シリーズの傑作『従兄ポンス』は、財産を持つ人間が死ぬ時に起こる悲喜劇が次々と残酷に、それでいて滅法面白く描かれた小説である。
主人公のポンスは、芸術家としての全盛期も過ぎて人気もなくなった老作曲家。落ちぶれてもなお、人気があった頃に慣れ親しんできた美食への欲望が尽きず、親戚の家に行っては豪華な食事にありつこうとするみじめな日々を送っている。そんなある時、ポンスはよかれと思い親戚の娘に結婚相手を紹介したものの破談。親戚から縁を切られ、その精神的ショックと肝炎の発症が重なり瀕死の重症となってしまう。それだけなら、哀れな老人の末路だと放っておかれたかもしれない。ところが、ポンスは隠れた美術品コレクターでもあり、死ぬとなればコレクションは遺産となって誰かの手に渡ることになる。それを知ったライバルのコレクターや弁護士、ポンスが住む家の門番のカミさんまで、一攫千金や出世を企む野心家が放ってはおかない。ここから、相続人のいないポンスのコレクションをめぐって権謀術数を駆使した戦いが始まる。一人のしがない作曲家の財産に釣られ次から次へと欲深い登場人物が現れて、物語が成立する。その手際の見事さに魅了され、夢中になって読み進めてしまうこと間違いなしなのだが、このような話は現代でもありえない話ではまったくない。そのことに思い至ると、たとえわずかな貯えしかなくとも死んだ後に何か騒動が起きるのではないかと不安になり、空恐ろしくもなる。法関係に詳しい人と話す機会があれば、本書を話題に死後の財産管理について意見を聞くのもまた一興ではないだろうか。
そして、死んだ後についての話題として全く触れられないのが、死んだ後に生き返る可能性とその時に起こる事態についてである。死んだはずの人が突然蘇生したという事例は、世界仰天アンビリバボー的なテレビ番組でよく目にするが、小説でもある。
エドガー・アラン・ポオの掌編「早まった埋葬」は生きたまま死ぬ恐怖を、ご丁寧に極限まで増幅して教えてくれる。土の中から、解剖される寸前の施術台からこの世に舞い戻る。生き返ったものの納骨室の中で、脱出できない絶望の内に死んでいく。ポオはそんな驚くべき事実を過去の記録から提示するが、それだけではない。自身が生きたまま死者として扱われる恐怖を空想し、悪夢のような世界を読者の前に現出させてしまうのだ。ポオの抱いた恐怖を、他人事と捉えてはいけない。死んだと思って油断していたがために、生きたままの火葬を体験することになる可能性も否定はできないのだから。死を確実なものとするために、日本刀を所有しているという人と出会った際には、本書を話題にしながら死んだ時の介錯を頼んでみるのもこれまた一興ではないだろうか。
それにしても、死んだ後にパソコンのデータを見られ、縁も所縁もない人間に財産を奪われ、蘇生したと思ったら火葬されてしまう人間の話というのも、面白そうな気がする。そんな人間がいれば会話も盛り上がるのだが。