★極悪人、ペドロ・パラモの一代記
フアン・ルルフォはメキシコの作家で、生涯にたった二冊しか本を出版しておらず、日本ではちょっとマイナーな存在です。本書はそのうちの一冊で、日本では現在絶版になっています。が、これがすごい。本当にすごいんです。
物語の軸となるのは、タイトル通り「ペドロ・パラモ」という男の一代記です。この男は強欲で好色で吝嗇で嘘つきで、七つの大罪が服を来て歩いているような人物です。極貧家庭で育った彼は、まずは金を借りている家の娘と結婚して、家の借金をチャラにしてしまう。もちろん本気で惚れているわけではないので、その後も手当り次第に女を抱き、次々に妻を取り替えていくわけです。
これ以降もペドロ・パラモは、隣接する他人の土地を強引に訴訟して巻き上げたり、教会に納める税金を踏み倒したりと、とにかくロクなことをしない。さらには革命軍を買収したかと思えば政府軍に鞍替えし、常に強い方について権勢を振るう。まさに極悪人そのものです。
だが、話はそこでは終わらない。ペドロ・パラモはこういう男ですから、当然さまざまな不幸に見舞われます。跡取り息子は親父を真似て、殺人や強姦を平然と行い、最後は落馬して死んでしまう。また、ペドロ・パラモは手当り次第に女と寝ることはできても、最愛の妻とはまともな夫婦生活すら営めない。この妻は実は父親と近親相姦的な関係にあって、罪の意識から四六時中幻覚に悩まされている。ペドロ・パラモはそのことを知らずに結婚してしまい、しじゅう幻覚に苦しむ妻の姿を見て懊悩するわけです。
★『嵐が丘』と『ペドロ・パラモ』
結局、彼女はベッドから起き上がることもなく、若くして死んでしまう。ペドロ・パラモは絶望に暮れながら妻の葬式を営むのですが、その葬儀の最中に、金を無心に来た息子の一人に、刺し殺されて死んでしまう。そしてペドロ・パラモの死後、中心人物を失った町は次第に衰退し始めて、最後は文字通りのゴーストタウンになってしまうのです。
暴虐の限りを尽くした権力者が、悪行の報いで自滅を遂げ、築き上げた王国もろとも滅んでいく。本書の骨格となっているのは、こうしたゴシック・ロマンス的な因果応報譚です。ただし18世紀の古典的なゴシック小説は、たいていは貴族の暴君が主人公ですが、逆に本書の主人公は、貧困のどん底からのし上がった男。その意味で本書の主人公の人物造形は、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』(1847)に登場する悪役、ヒースクリフのそれに近いと言えるでしょう。
訳者によるとペドロは「石」、パラモは「荒れ地」を意味するそうです。『嵐が丘』に出てくる悪漢、ヒースクリフの名前もまた、「荒れ地に生える植物」を意味するヒース、「崖」を意味するクリフの二つがあわさってできています。このことは本作が『嵐が丘』の系譜上にあることを雄弁に物語っています。
★「父殺し」の物語の系譜
極貧から這い上がって自らの王国を打ち立てるものの、結局は自らの息子によって、その血統を絶たれてしまう。そんなペドロ・パラモの生涯は、フォークナーの長編『アブサロム、アブサロム!』(1936)の主人公、トマス・サトペンの姿を連想させます。というより、ほとんど同じ人物と言っても良いほど、ペドロ・パラモとトマス・サトペンの一生は似ています。
また、本書の語り手となるのはペドロ・パラモの息子の一人、フアン・プレシアドという人物で、パラモ姓ではなく母方の姓を名乗っています。のちに我が国の作家の中上健次は『枯木灘』 (1977)という作品で、浜村龍造という極悪人の生涯を描きますが、その息子は竹原という母方の姓を名乗っています。これはいずれも作中の息子が、極悪人の父親と不和の関係にあるからです。
つまり本作はゴシック・ロマンスであると同時に『アブサロム、アブサロム!』の系譜を引き、のちの『枯木灘』につながるような「父殺し」の物語でもある。その意味で本作は、フォークナーがそのタイトルに借用した、旧約聖書の登場人物、アブサロムの物語の系譜上にあるとも言えるし、オイディプス神話の遠い末裔だとも言えるでしょう。
なんだ、それじゃよくあるパターンの話じゃないか、と思われるかもしれませんが、そうじゃない。本書は物語そのものも激しいのですが、その語り口がすごいんです。先に紹介したあらすじは、実は本書の内容を頭の中で相当に整理した上でないと浮かび上がってきません。本書は実に複雑な構成を持っており、パズルを解くように読んでいく必要があるからです。
★魔術的リアリズムの源流
この物語は母を亡くした主人公が、父親のペドロ・パラモを訪ねて、コマラという街へ旅をするところから始まります。主人公はその道すがら偶然に、アブンディオと名乗る男と出会いますが、実はこの男は何年も前に死んでいるということが、しばらく読んでいくと判明する。
本書ではこのように、生きている人物と思っていたら実は死者だったり、死んだはずの人物が平然と出てきて生者と会話を交わしたり、ということが頻繁に起こる。誰の台詞かと思って読んでいたら、死んだはずの人物のモノローグだった、なんて具合です。しかも誰が死者で誰が生者なのか、なかなか簡単にはわからない。その構造はもはやメタフィクションに近い魔術的リアリズムで、読むうちにどんどん幻惑されて、夢中になって読んでしまうわけです。
本書の刊行は1955年で、ガルシア=マルケスによって魔術的リアリズムが世界的ブームとなる以前のことです。それもある意味当然の話で、本書はかのガルシア=マルケスに多大な影響を与えた書物なのです。もちろんマジック・リアリズムには、フアン・ルルフォ以外にもさまざまな先駆者がいるわけですが、マルケスはこのルルフォから絶大な影響を受け、のちには彼と共同で、映画の制作を手掛けたりします。つまり70年代の魔術的リアリズムの大きな源流となった書物が、この『ペドロ・パラモ』なのです。
近年の日本文学では、村上春樹や阿部和重などが魔術的リアリズム的傾向の作品を書き、むしろ主流を占めつつさえある。そうしたマジック・リアリズム文学の原点の一つをなす本が絶版というのは実に残念な事態です。けれども大変幸いなことに復刊ドットコムを通じて本書は既に復刊が決定、近々再発となる模様です。復刊が相成りましたら是非お手に取ってご覧になってください。本当に面白い一冊です。