僕は地図を覚えない馬鹿者である。また変に疑り深くもあるので、たとえばアメリカが本当に存在しているか、怪しいものだと思っている。この目で実際に見て確かめるまでは信じない質なのだ。奇想天外な場所がつぎつぎに登場する旅行記を、そんな偏屈が読んでみる――面白くて止まらず、書評まで書いてしまう。いったいなにがそうさせるのだろう?
僕が考えるその秘訣は、著者スウィフトの、想像力ではなく、説得力だ。
十七世紀末のこと。乗っていた船が難破し、主人公ガリヴァーはどこかの浜辺に流れ着いた。目を覚ますと、自分の身体が縛り付けられているのに気づく。驚いて目玉を動かすと、周りには沢山のちいさな人間たち。そう、ここはこびとの国だったのだ。王様に謁見するため、拘束されたまま運ばれることになった。このシーンでの、こびと達がどのようにしてガリヴァーを運んだかの記述は、非常に具体的だ。
地面に寝ている私の身体に、〔…〕その運搬機具はくっつけられた。一番困難な問題は、私をどうやってつり上げ、その上に乗せるかであった。〔…〕まず、各々高さ一フィートの柱が八十本立てられた。次には細引きくらいの大きさの強い紐が、私の首や両手や胴や両脚に職人の手でぐるっと巻き付けられたおびただしい繃帯に、鍵できつくゆわえつけられた。〔…〕屈強な男達が動員されて、柱の一つ一つに取り付けられている滑車を利用して、これらの紐をえんやこらさとばかり引っ張った。
まだ蒸気機関の発明されていない十七世紀末に、人々が大きなものを運ぶときはどうしていたのか、という説明文として読むことすらできる。こういったあり得べき描写を重ねていくことによって、読者に説得力の魔法をかけるのだ。すっかり魅了された僕は、童心に還ることなく夢中になった。「だが、おとなの目で原作を読むとき、そこにはおのずと別の世界が現出する。」(表紙)といううたい文句に違わず、これは大人の小説と言って差し支えない。
同著の童話ヴァージョンの流布本では、せいぜい小人国リリパットと、大人国ブロブディンラッグのところでお話は終わりになっている。しかし、原本にはまだまだ続きがある。ガリヴァーは様々な国に訪れるが、その放浪癖をやめる原因となるきついお灸が、彼が最後に旅するフウイヌム国で待っている。
それまでガリヴァーが訪れた国の住人たちは、すこしばかり異様な姿形をしてはいるが、それでもみな「人間」という括りに収まっており、描かれる内容もその社会や生活に主眼が置かれていた。しかしフウイヌム国では、人間のかわりに、フウイヌムという馬たちが登場する。その国では、ヤフーという、どうやらかつて人間だったらしい種族が、彼らの家畜として飼われている。
例によって航海中に不幸に見舞われたガリヴァーが、船を失い、途方にくれて海岸沿いを歩いていると、数匹の動物が畠にいるのを見つけた。「私のすべての旅行を通じて、これほど醜悪な動物を見たことも、またこれほどただもうわけもなくむかむかするような嫌悪感を私がいだいた動物もなかったように思う」と彼は感じた。この動物が、ヤフーである。
群れを追い払ったあと、ガリヴァーは二頭の馬に囲まれる。馬たちはまるで「新しくて難しい現象をぜひ解明しようとしている科学者」のように犀利で理知的に振る舞い、ガリヴァーの身につけている靴や靴下について真剣に悩み、どうやら彼ら独自の言語で話し合っている様子さえ見せる。あとからわかったことだが、彼らがこの国を治めている、フウイヌムという種族だったのだ。
ガリヴァーはその奇妙な格好や、立ち振る舞いを珍しがられて、ある家に招かれる。そこの主人(もちろん外見上は馬だ)と会い、どうやら知性があるらしいと認められる。彼らの言葉を覚えながら、その家に住まわせてもらうことになる。
ガリヴァーはフウイヌムたちの言葉を習いながら、それが「中国語以上にたやすくアルファベットに分解できる」ものだと気づく。つまり、非常に整理された言語だと気づく。ある程度言葉を覚えると、彼は主人と会談を始める。物語内の時間では二年にも及び、文章量としてはほとんど六十ページにも渡る、痛烈な交流だ。
ガリヴァーは、かつて自分の住んでいた国では、フウイヌムと人間の主従関係はひっくり返っていた、と話す。主人はそれを受けて、それでは君たちの生活や社会はどのような形態だったのだろう、と問いかける。ガリヴァーが子細に人間たちの社会のことについて説明すると、主人は、どうやら君たちの社会は我々の飼っているヤフーたちのものに比べていくらか進んでいるようだが、しかしヤフーたちの持つ悪徳が理性によって抑えられたわけではなく、むしろ悪徳が拡大された結果に過ぎない、と一刀両断する。
ここから、前述した説得力が、大いに効果を発揮する。ガリヴァーは自分の社会の形態をできるだけ正確に伝え、主人はそれに対して痛烈な批判を投げかける。「悪」という概念を表す言葉がその言語に存在していない程に、フウイヌムたちは高徳であり、最初は人間とヤフーを分けて考えていたガリヴァーも、話し込んでいくうちに、両者を同一視するようになっていく。貴族制、政治、戦争、裁判などに纏わる虚偽の数々を、「ヤフー的」であると考え始める。そしてガリヴァーは完全に教化され、この国に定住したいと強く望むようになる。このあたりから、文章中の「人間」という言葉はすべて「ヤフー」に置き換えられ、自分自身のことも「人間」ではなく「ヤフー」だと考えるようになる。
フウイヌム国から放逐された後、祖国イギリスに帰り着いたガリヴァーは、かつての友人の勧めで旅行記を書き始める。「すべての我が同類の、とりわけヨーロッパの同類の、魂の奥深く巣くっている、嘘をつき、ごまかし、騙し、二枚舌を使うというあの悪癖」にまみれた、「この王国に住んでいるヤフー族」を「矯正しよう」と計画して。そしてこのような「馬鹿げた計画」を試みたのも、「自分の家族の連中と付き合っているうちに、いつのまにか私自身のヤフー的性格に巣くっていた腐敗現象が再び息を吹き返してきた」からだと、最後には自分を切り捨てる。
「他をえぐり自らをえぐるスウィフトの筆鋒はほとんど風刺の枠を突き破り」(表紙)という文章が、ここにきて僕を突き刺した。童話として広く知れている物語の原作が、ここまで鋭く、読者を恐怖させるということに、とても驚いた。同時に、世界を見たいという気持ちが、どうしようもなく巻き起こってきた。七つの海をまたにかけたガリヴァーのように、この欲求は次第に加速して止まない。彼が見つけた沢山の新しいものを、今度は自分の目で確かめに行きたくなるような、鼓舞するような小説だった。