★物語の複雑性の限界に挑む
ふつう物語というものは、時間的な順序を追って進みます。悲劇だろうが喜劇だろうが、基本的には物事が起こった順序通りに、物語は進んでいく。ミステリーの場合は犯人や動機などが隠された状態で物語が進みますが、これは叙述の順序が変わっているだけで、別に作品内の時間構造自体が乱れているわけではない。なので名探偵が登場して話の頭を説明してしまうと、基本的に物語も終わる。
いっぽう、物語内の時間の構造自体が狂ってしまっている物語もあります。いわゆるタイムパラドックスものと呼ばれるのがそれです。この場合、時間の前後関係が狂ってしまっていて、しかも相互に影響を持っているので、話は非常にややこしくなります。けれども、一般のタイムパラドックスものの場合、時間は単線のまま流れているので、原則としてオチは二種類しかありません。元の歴史に戻ってしまうか、歴史の改変に成功するかのどちらかです。
さらに時間が二股になってしまったら……と考えると、いわゆるパラレルワールドものができます。最近流行なのはこのスタイルで、タイムラインが同時に複数流れており、その影響関係を問題にしだすので、話は一気にややこしくなります。このタイプの物語では、いくらでも多くの世界が存在しても良い理屈になるので、原理的には果てしなく複雑な物語を作り出せます。このへんが近年、パラレルワールドが流行する理由かもしれません。
それでは、こういう複数の時間世界を扱う物語以上に、複雑な形式の物語ってあるんでしょうか。あるんですね、これが。それが今回ご紹介する、円城塔の『Self-Reference ENGINE』なんです。
★論理レベルを軸にして進む物語
それでは本書は、どういう世界の物語なのか。それをここにご紹介することはできません。なぜか。この物語の眼目は、なかば以上はこの「超複雑な世界観そのもの」に置かれているからです。
ふつうの物語は「タイムパラドックスものです」とか「パラレルワールドものです」と紹介してもネタバレにはなりませんが、この作品の場合には「作品を構成する世界観自体が明かされていく過程」そのものが、物語の大きな推進力になっている。なので「これこれこういう世界の物語です」とバラしてしまうと、読む楽しみが著しく損なわれてしまうのです。
ただし、ちょっとだけヒントを出しておくと、この物語では時間の構造がほぼ完膚なきまでに壊れています。なので、時間の前後関係を追って物語を進めていくことはできない。では、この物語の語り手は、どういう軸に沿って物語を叙述していくのか。ここが本書の面白いところなのですが、この物語は「論理の水準」に沿って進行してくのです。
英語の構文で「that構文」というのがありますよね。いわゆる「複文」というスタイルで、あるテクストがより上位のテクストに含まれる、という構文です。この物語の構造は、そうした複文の構造と似ています。本書は10数ページの小さな章が無数に続く形式でできていますが、ある章はよりメタレベルの章に含まれ、その章はさらにメタレベルの章に含まれ、その章はさらにより上位の章に……といった具合に、記述の論理がどんどんメタ化していく。本書の駆動力になっているのは時間の前後関係ではなくて、こうした論理の階梯なんですね。
★メタレベルの最終審級はどこに?
実は、こうしたタイプの物語がこれまでに皆無であったかというと、決してそんなことはありません。私のよく馴染みのある界隈でいえば、たとえば寺山修司の戯曲『レミング』などは、こういうタイプの物語の典型です。
この物語では主人公の住むアパートに、とつぜん映画のロケ隊が乱入してくるところから始まります。ところが、この映画の主演女優は、自分と役柄の区別が付かなくなった精神病の患者。周囲のスタッフはそのドキュメンタリーを撮っているテレビ局のクルーなのだとわかる。けれども主人公も同様に、やはり患者の一人なのだと発覚する。要するに登場人物全員が実は精神病者で、このアパートは演技療法を行う開放病棟だったとわかるわけです。
このあともこの戯曲では、虚構と現実、夢とうつつが二転三転して、論理のレベルがどんどん上がっていく。つまり時間軸ではなく、論理のレベルが物語の軸になっているという意味で、本書と『レミング』はよく似ているんですね。これと同種の作品は、ほかにも探せばいっぱいあると思います。
けれども「論理階梯を無限に上っていったとき、最終的に何が出てくるのか」という問いに肉迫する、その気力と執念深さと来たら、本書は実にずば抜けています。もちろん論理階梯を軸とする本作といえども、結局は小説という「時系列で読むほかないメディア」のかたちで書かれているわけですが、本作ではその特性さえも逆手に取って、実に見事なトリックが仕掛けてある。このへんは実際に自分でお読みにならないと面白くないので、是非読んでみてください。
★綺想的イメージの奔流
というわけで、物語の構造がどうなっているかという形式的なところばかりをご紹介してきたのですが、そういうややこしい話はさておいて、本書には目も眩むばかりの奇妙奇天烈なイメージが、数多く綴られています。
たとえば26人もの数学者が同時に思いついた、世界の真理を表す定理。あるいは、青空に浮かんで回転している、まったく質量を持たない純粋な円周。祖母の家の床下から大量に見つかるフロイト(!)。深遠な教理問答に没頭するコンピュータ、などなど……。そうした奇妙なイメージと戯れるだけでも、本書はじゅうぶん面白いし、楽しめると思います。
そういうわけで、本書にはむしろSFというよりも、古めかしい綺想文学の香りが漂っています。たとえばレーモン・ルーセルの『ロクス・ソルス』や、J=K・ユイスマンスの『さかしま』といった、古風な幻想文学の持つ雰囲気を、私は本書から連想しました。
なので、本書をSFファンのためだけに独占させておくのは、ちょっともったいないような気がします。幻想文学や純文学のファンが読んでも良いし、哲学や論理学をやっている人が読んでも面白いでしょう。幅広い読者層の方に読んでいただきたい、実に面白い小説だと思います。