暖かくなってきた。今日は春一番も吹いた。いい日である。旅立ちにぴったりの季節である。でも旅立たない。なぜなら私は独り身の人見知りにして、出不精である。義務感とお金の誘惑に釣られて仕事に出かけてはいるものの、それ以外に外出することもなければ、気分転換に旅行に行くこともない。部屋で一人、布団にくるまってボーっとしていれば、人と話さなくても済むし人間関係の悩みもない。しゃべるのも億劫で、買い物も寝床でパソコンを使ってする。これではだめだ、とも思わない。そんな私が旅立つきっかけとは、相当に強制力を伴った理由だろうと布団にくるまりながら考えてみる。
たとえば前段のようなダメ人間なので、将来結婚したらだが、家出した妻を追って着の身着のまま慌てて家を飛び出す、情けなくも慌しい出発が想像される。近松秋江「疑惑」の主人公の「私」は、2年前に家出した妻が浮気をしていたという証拠を求めて、日光へと旅立つ。そこで何をするかといえば、日光中の宿の宿帳をしらみつぶしに調べ、過去に日光を旅行したはずの妻と浮気相手の名前を捜しだすのだ。涙ぐましい努力をする哀れな夫に見えるかもしれない。ところが回想される夫婦生活で明らかになるのは、文筆業で生活費も稼げず甲斐性なしで、居候の学生に妻を奪われてしまう「私」のダメ男ぶりである。それでいてわざわざ東京から日光まで宿帳を調べに行くというマメさと、すでに2年も経ってしまっている間の悪さが、何とも言えないおかしみを生み出す。本書では妻に逃げられて浮気の証拠を探しに行くという、ある程度自発的な理由での旅立ちだったが、ダメ男の場合、妻から家を追い出されるという事態もありえる。家を追い出されて、さまよう様にあてのない旅に出るというのは物悲しいので勘弁してほしい。独り身なので想像だが。
想像とはいえ、どうにも情けない気分なので、もっとすてきな理由を考えてみたい。駆け落ちなどどうだろうか。家族の反対を押し切り、なにもかも投げ打って恋人とあてのない逃避行に出る。すてきだ。こちらの「あてのない旅」は悪くない。と思ったが、エマニュエル・ボーヴ『のけ者』を思い出したところ最悪だった。躊躇せざるを得ない。独り身の彼女無しなので、あくまで想像だが。
物語は転落の連続である。実業家の娘ルイーズは貧しい労働者の男と駆け落ちして結婚。苦しい生活に耐えた後、急死した父親の遺産で落ち着いた生活を送っていたが、やがて夫に先立たれてしまう。亡夫が拵えたギャンブルの借金の返済で蓄えもあまりなければ、頼るべき人間もいない。将来に不安を覚えたルイーズは父の秘書と結婚した姉のテレーズを頼ることにして移住していたジュネーブから故郷パリへと戻り、住居と一人息子ニコラの職を世話してもらおうとする。血のつながった家族、助けてもらって当然であると思うだろうが、何といっても家を出た理由が駆け落ちである。自分勝手な妹に対する怒りに燃え、頼られる側になった優越感に浸る姉が妹に優しくするはずがない。テレーズに散々にいびり倒されたルイーズは、ニコラと共に自立の道をさがすことにする。
八方ふさがりの状況の中、本書の主人公にしてすばらしきダメ人間・ニコラ23歳がいよいよ本領を発揮する。ニコラは仕事を紹介してもらおうと親戚に会いに行って希望を聞かれても、「別に、何でも」とやる気のない受け答えをしてチャンスを逃す。現状をどうにかしようと思っても、途中であきらめて結局何もしない。しかも親子そろってお金にルーズであっという間に貯金は無くなり、借金で首が回らなくなる。
ニコラは破産しかけては、どうにか詐欺や拝み倒しでいくらかのお金を手に入れて急場をしのぐが、遊蕩費や借金の返済であっという間に使い果たし、あっという間に窮地に陥る。住む家もあっという間に変わる。テレーズの家を振り出しに、ホテル住まいを挟んで不相応に洒落たアパートを借りるも家賃が払えずすぐに別のホテルへ引越し、そこのホテルの家賃も払えなくなって、さらに貧相な安ホテルへと借金に追われるように引っ越していく。安住の地がないというのは、出不精な人間からすれば信じられない、耐えがたい話である。もはや引っ越すとすれば病院か路上かという事態に陥った時、負の連鎖は最悪の形で終息する。人生が破綻するまで懲りずに堕落し続けるニコラ。その姿に共感を覚えてしまうのは、ニコラが人間の普遍的な弱さを象徴しているからだ。とはいえ、共感を覚える弱さをもっている時点で、安住の地が無いのを恐れている時点で、駆け落ちなどできるはずがない。
現実味の無い妄想にふけってきたが、とんでもなく「あてのない旅」もある。筒井康隆『虚人たち』の主人公が車を走らせて旅立つ理由は、「物語を成立させるため」である。小説ならそれはそうだろうという話かもしれないが、小説の主人公も(人間と設定されていれば)人間である。生きていて「自分は物語を成立させるために生きている」とは考えていないはず、と思いきや本書ではそう考えてしまうのだ。
冒頭、「今のところまだ何でもない彼は何もしていない」と書かれた主人公は、その時点でまだ「何でもない」存在に過ぎない。それが、語り手によって家の中が描写されることで自分が家におり、家族のいる父親であることを理解する。つまり、目に映る風景や登場人物の存在から心理まで、紙の上に文字で表されることでしか現実を把握できないのである。窮屈な設定にも見えるが、どこにいるのかもわからない妻と娘と会話をして2人が誘拐されどのような状況にあるのかを知るなど、どんな突拍子もないことでも文字になってしまえば問題ないという、ルール無用ともいえる倒錯した設定なのである。主人公は「作者によって妻と娘を捜す父親という役割を与えられた存在」というありえない役柄を演じながら、文字に表された描写をたどって、あてのない捜索行を続ける。
小説の登場人物として作者という権力者に動かされる。これに勝る強制的な旅立ちのきっかけもないだろう。ありえない話なのだが本書を読むと、自分も作者によって演じさせられている、何かの作品の登場人物ではないかと錯覚、いや事実そうなのだろうと考えてしまう。もし本当なのならば、もう家を出る理由も決まっているはずなので、もうあれこれ考えずに布団にくるまっていようと思う。