普段の生活で、割り切れないことに出くわすことはよくある。たとえばレストランで、メニューに載っている写真よりもボリュームの少ない料理が出てきた時。値段を考えると妥当な気もするし、不況で量を減らしたのかもしれないと考えると、どうも怒ることが出来ない。たとえば、テレビやインターネットで何かの事件の犯人に有罪判決が下りたというニュースを見た時。犯罪者が本当に悪い人間なのか、周囲の人間や環境にも問題があったのかもしれないし、きっかけさえあれば罪を犯さなかったのかもしれないなんて考えると、有罪になっていい気味だと思うことができない。
割り切って怒ったり、憎んだりすればどんなにスッキリすることか。そんな欲望を抱くことはあるけれども、もしかしたら自分が不快に感じるようなことでも、他の人からすればたいしたことはないのかもしれない。明日は我が身で、罪を犯したり、誰かに同じような不快な思いをさせてしまうこともあるかもしれない。そう考えるとやはり、某レストランや犯罪者を無邪気に悪と断定することはできない。
とはいえ、物事を割り切ってしまいたいという欲望を持つ人間は、いつの時代、どこの国にもいる。たとえば、20世紀のイタリア文学を代表する作家、イタロ・カルヴィーノがそうだ。なぜ、幾多の作家の中からカルヴィーノを選んだかといえば、本書『まっぷたつの子爵』の存在が理由である。なんせタイトルに〈まっぷたつ〉と付いているのである。見事に割り切れていて、わかりやすい。ところが、読んでみて気分爽快になるのかというと、そうでもない。不思議なことに、割れば割るほど割り切れない気分になり、なんで割り切れないのかと読みながら考えてしまうのである。
舞台は17世紀後半から18世紀前半にかけてのヨーロッパ。ボヘミアではキリスト教徒とトルコ人が、戦争を繰り広げていた。戦いが激化する中、イタリア・テッラルバから召集され、前線に送り込まれたのが、本書の主人公メダルド子爵である。初めての戦争に興奮状態の若き子爵は、戦争の恐ろしさも死の恐ろしさも知らないまま、果敢にトルコ軍へ戦いを挑む。大砲の轟音を聴き、〈「そしてこれが最後の弾丸なのだ」と言える日は、二度とわたしにはこないだろう〉と、ニヒルに考える子爵を正面から襲ったのは、彼の戦争経験で最後の弾丸となるだろう、トルコ軍の大砲から発射された弾丸だった。当然死んだと思うところだが、子爵は味方の軍医による手術の末に、弾丸によって裂かれた体の右半分だけが生き残る。
九死に一生を得てテッラルバに帰還した右半分だけの子爵は、見た目だけでなく性格までも変わり果てていた。自分の部屋に閉じこもりきりの子爵は、自分の部屋に飛んできた父親が飼っている小鳥を片翼・片脚・片目をもいで無残な形にして殺してしまう。それを知ったショックで父親は死んでしまい、ここから左半身と善の心をボヘミアに置いてきた男の暴走が始まる。植物から動物から目に入るもの何から何まで、剣で切り落として半分にしたかと思えば、裁判で軽い罪の罪人を死刑にしたりと、残虐な行為を繰り返し、テッラルバは恐怖のどん底へと突き落とされる。しかし、右半身の子爵の横暴に思わぬ邪魔が入る。木端微塵になったと思われていた子爵の左半身が、実は生き残っており、何年もかけてテッラルバに帰還したのだ。
左半身の子爵は善意の塊。怪我をしている人がいれば介抱するし、貧乏人や年寄りを援助したりもする。ところが、こちらの子爵も困りもの。親切なのはいいけれど、だんだんと善意の押し売りが目に付き出して、それはそれで迷惑な存在となる。
まっぷたつになった男が主人公なのに、ずいぶんと割り切れない話である。しかしそれも仕方がない。そもそも、体が半分になって生きていること自体、ありえないし割り切れない話なのだ。そうかといってつまらないわけではない。ありえないからこそ不条理で、面白い物語になっているのだから、割り切れない物事を割り切ろうとすることで起こる騒動を楽しめばいいのである。
本書に登場する少し滑稽で個性的な脇役たちも、子爵の被害に遭う。迫害から逃れて人間不信となり、規律ばかりを重んじるあまり自分たちを監視し合い、いつの間にか自分たちの宗教の由来や儀式さえも忘れてしまったユグノー教徒。人間社会を想いつつも自分たちの集落〈きのこ平〉で楽器を演奏し、歌いながら無軌道な生活を送る、癩(らい)病の人々。まじめな人から見れば、ユグノー教の人々は慎ましい生活をしている立派な人々で、癩病の人々は恥も知らない、けしからん奴らとなってしまう。反対に、生真面目さが苦手な人には、規律が息苦しさに、無軌道さが俗世間から離れた開放的な楽しさに映る。どちらが正しいわけでもなければ、間違っているわけでもない。美点も欠点も両方あった方がいいに越したことはないのである。ところが、すっきり半分に割かれてしまった子爵に、そんな割り切れない理論は通じない。〈善半〉の子爵による、ありがた迷惑な行為によって悲喜劇が巻き起こる。
中には、子爵の考えに心酔してしまう人間もいる。今は亡き両親の不義のために、子爵の甥にもかかわらず周囲から浮いた存在である、物語の語り手の〈ぼく〉は、普段はテッラルバに漂着してきたイギリス人の船医トレロニー博士と一緒に、こおろぎの病気の治療法を調べたり、人魂を捕まえてそれを保存する方法をさがしたり、奇妙な現象を求めて歩き回っている。まだ子供で、自分のことを不完全な人間と感じていた〈ぼく〉は、右半身〈悪半〉の叔父に、 〈もしもおまえが半分になったら、(中略)おまえはおまえの半分を失い、世界の半分を失うが、残る半分は何千倍も大切で、何千倍も深い意味をもつようになるだろう。そしておまえはすべてのものがまっぷたつになることを望むだろう、おまえの姿どおりにすべてのものがなることを。なぜなら美も、知恵も、正義も、みな断片でしか存在しないからだ〉 と言われ、半分の魅力に共感とあこがれを抱くことを抑えられない。
子爵のような特殊な人間でもない限り、半分になることは難しい。割り切れないことを割り切ろうとすれば無理が出て、子爵の二の舞になる。では、子爵以外の人間でも半分になれる方法はないのかというと、本書の読者に限ってとはいえ、ある。方法は簡単、本書を読む、ただそれだけである。現実に半分になれる人間はおそらくいないけれど、物語の世界に生きる子爵に感情移入すれば、おのずと半分になる経験ができてしまう。そこで浮かび上がるのが、半分になることに疑問を持ち否定したいと思いつつも、半分になることへのあこがれを捨てきれないという、相反する2つの欲望を作品に投影した作者カルヴィーノである。そしてその分身が、語り手となってまっぷたつになった子爵の行動をたどる〈ぼく〉なのだ。本書はそんな、割り切ったつもりだけれど割り切れない、矛盾だらけの自分を半分に割ってみた物語なのである。