第139回直木賞受賞作、井上荒野『切羽へ』、恋愛小説である。
舞台は本書内で明示されてはいないが、作者の父である井上光晴の故郷、長崎県崎戸島であることが作者自身より明らかにされている。
美しい自然に囲まれ、海や野からの恵みに満ち、太陽は惜しげもなく降り注ぎ、人びとの関係はとても近い。
そこに住むセイは島の唯一の小学校で養護教諭をしている。三十一歳。夫は三歳上の陽介、画家である。二人の仲はとても良い。冒頭はこうだ。
「明け方、夫に抱かれた。
大きな手がパジャマの中にすべり込んできて、私の胸をそうっと包んだ。」
ほんのりと立ち昇る人肌のぬくもり。そして恋愛小説であろうと読者に意識させる心にくい書き出しだ。
主役であるセイを語り手として、島での日々の生活が丹念に描かれる。小さな小学校での子供たちとの親密な関係も丁寧に描かれる。作者が島の空気を充分に自らの身体の中に取り込み、目に映るもの、耳に聴こえる音、食べたものの味を入念に咀嚼したからこそ可能になったと思われる、言葉を削ぎ落とした淡々とした描写だ。これは本書の読みどころのひとつで、慎重に読めば、読者も島で日々を暮らすことになるだろう。
そしてセイの行動の様子やその時々の心の揺らぎもまた、淡々と綴られる。ただし、肝心なところでは、なぜセイがそんな行動をとるのかについては説明されない。セイだけではない、陽介も含めたほかの登場人物たちの心のうちについても、作者は絶妙な筆の運びでそこを回避し、読者に解釈を委ねる。主役であるセイに至っては、その容姿の特徴に関する記述さえないのが、まさに象徴的だ。
『切羽へ』は、読者に解釈を要求する小説なのである。女性の語り手による簡潔な表現の読みやすい文体の裏には、一筋縄では歯ごたえが隠されているのだ。
この書評を読む人であれば、すでにみんなご存知であろう、人妻であるセイは、島にやってきた新任の教師に心をひかれてゆく。その心の揺れ動く様子が、物語の全体を貫く。
先に、二人の仲はとても良い。と書いたが、結婚して四年が経っているところで、微妙な段階でもあるようだ。セイは、月日の経過の中で、自らの来し方・行き方について、ふと冷静に思いをめぐらせる。また、夫から「あんた」と呼ばれるようにもなった。さらに、元々島の生まれではあるものの、一時期東京で暮らしていたこともあり、島でずっと暮らしていた人たちとは、(とくに十五歳で一家で本土に移住し、東京の大学に進んだ夫にとって)、少し距離があったのだが、それは時間の経過とともに島の風土の中で融けていきつつある時期でもあった。
そんな中で、音楽の新任教師、石和聡が島にやってきた。
「男の姿は日差しの中で、白い紙にすうっと引いた一本の頼りない線のようだった。私と男は見つめあった。凝視しあっていた、と言ったほうがいいかもしれない」
この見えたか見えないかの幻のような遭遇を、セイはミシルシを見たのかもしれない、と考えた。何かピンとくるものがあったわけだ。
セイは、口が重く、したがってなかなか心をひらこうとしない石和と何とか気持ちを通わせたいと、同僚として、恋心を抱くものとして心をくだく。石炭を採掘するトンネルのいちばん先が切羽。その跡を、石和に見せるシーンがハイライトだろう。
ただし例によってここでも、なぜその場所だったのか、セイが本当に口にしたかったのはどんな言葉なのかは、読者が想像しなくてはならない。僕は女の人の昏く燃え上がる情念と、同時に純な一途さをそこに見たのだが…。
女性であるセイが、本当に成熟した島の女になる過程を描く物語、と言っていいだろう。突飛なことなどは、そうは起こるはずもなく、平凡な女の物語と言ってもいい。そして物語の終着点から振り返れば、心に中に何か重いものを抱え込んでいる男である石和の人物造形にも納得がいく。
さらにその脇の人物たちの造形も見事。一人暮らしの老婆である、しずかさんの、老いてなお好色な様子。セイの同僚、月江の、見た目から口にする言葉からその行動まで、僕にはとてもリアルに感じられた。そしてこの二人は、『切羽へ』におけるテーマを見事に表現する。恋してしまうことの不思議さ、怖さ。だれかに頼らずにはいられない、哀しいくらいの人間の弱さ…。
島の言葉がもたらす豊かな包容力は、この物語に大きな膨らみをもたらしている。浮ついたところのまったくない、大人のための優れた恋愛小説だ。