凄い新人が現れたものだ。これがデビュー作とは! ちょっと信じられないほどの完成度ではないか。話題の湊かなえ『告白』である。
『聖職者』という作品で第29回小説推理新人賞を受賞した湊かなえであるが、同作品は『告白』の第一章として冒頭に収められており、以降の全六作はすべて巧みに連結され、ひとつの物語を形成している。なにによって連結されているか? 憎悪によってである。
それにしても、なんという異常な構成なのか。冒頭の『聖職者』を読んですぐにそれに気づかされる。中学校の終業式の日。一年生のあるクラスでの、女性の教師の生徒たちへの退職の挨拶。まさにモノローグ以外のなにものでもないこの教師の語りだけで、『聖職者』は構成されているのだ。
正確には、モノローグという形式自体は異常ではない。ただし一切の前提・了解もなく、女教師が恐ろしい話を唐突にしかもよどみなく話し始めるのだ。この思いよらぬ展開を異常といわずしてなんというべきか。そしてその話が「愛娘の愛美は、このクラスの生徒に殺されたのだ」という告白に至り、異常性は早くもピークに達する。クラスも凍りついたが、読んでいるこちらの背中にも電気が走る。
さらに本文四十七頁のこの『聖職者』を読むだけで、異常なだけではない、実に緻密な構成であるということにも気づかされる。
激しく巨大な憎悪をちらつかせながら、犯人を次第に特定し追い詰めてゆく教師・森口悠子の、低温質の大きなトカゲが高度な知能を得たかのようか、恐るべき周到な語り口。当初、散漫なパーツにすぎないと思われていた話は、瞬く間に事件の全貌の構成パーツとして重要な役割を担い、読者は悠子の話に釘付けとなる。やがて、驚くべき告白…。
戦慄の四十七頁。第一ラウンドでいきなりKOを食らったような気分だ。作者・湊かなえは放送作家であるようだが、相当に推敲を重ねてこの『聖職者』を完成させたのではないかと推察する。凄い集中力のエネルギーがこの『聖職者』に満ちているのだ。
次いで『殉教者』。
いきなりまた唸らされる。今度はそのクラスの生徒、北原美月のモノローグだ。
なんと大胆な。そう、この後も人が入れ替わってモノローグが続いていくのだ。
そして、悠子が去った後の凄惨なできごとが語られる。犯人の側からの事件の真相が語られる。やがて最終章、わずか本文十三頁の『伝導者』において、憎悪のマグマは大爆発を起こす。
驚くべき大胆かつ緻密な構成に、読む者はみな衝撃を受けるだろう。
ただそれだけではない。『告白』ではいまの日本社会が抱える複数の問題が、浮き彫りにされている。
中学校一年生、十三歳の犯罪であるというところが、まずキーとなる。刑事罰対象年齢は十四歳からであるからだ。ここに悠子が自ら手を下した理由がある。そしてそれは同時に作者・湊かなえの問題提起でもある。
つまり、肝心の真相究明までは至らない報道への不信。犯人である少年少女の自己陶酔、さらにはアイドル化。そして、数年後に約束されているかのような社会復帰。被害者の親の、まさに行き場がまったくない怒り…。
学校に目を転じれば、クラス内では声の大きい生徒に雪崩を打ったように従わざるを得ない恐怖と、その多数派に属せない生徒へのいじめ。あまりに思慮が足りない、先生とはとても呼べない幼い教師の存在。外に漏れるまでは社会に問題をオープンにしない学校の隠蔽体質。家庭では子の心のうちに思いをめぐらすことのできない親、子を捨てることのできる親。
それらの根底にあるのは、もはや社会に定着してしまった倫理観の崩壊である。
湊かなえの現状認識であるさまざまな関係性での不信が大きな憎悪となって渦を巻き、ここ物語を支えている。それは紛れもない現実でもある。凶悪な少年犯罪自体はもはや珍しくないのがその証しだ。『告白』で描かれているおぞましい憎悪の連鎖が現実のものとなっても、もはやなんの不思議もない。そしてこれだけのデビュー作を上梓した湊かなえも、もはや恐るべき存在だ。
(刑事罰対象年齢に達しない少年犯罪に対する作者の問題提起は真っ当であるが、設定からの必然である十三・四歳の中学生のモノローグには少し違和感が残る。彼・彼女らの、自らの気持ちや行動を語るモノローグが実に能弁なのだ。作者はあえて、本来はまだ残っている幼さに目を瞑ったのだろう。そのために彼・彼女らの心の動きは整理がついてわかりやすい。でも整理が行き届いた分、リアリティが少しだけ損なわれたのではないか、というのが唯一の不満です)。