レベッカ・ブラウンの『体の贈り物』(マガジンハウス刊、のちに新潮文庫)を初めて読んだときの気持ちを、もう7、8年経ついまでも私ははっきり思い出せる。なぜかって? 読み返すたびに、大真面目に、「小説っていいなあ」と思うからだ。エイズ患者の身の回りの世話をするホームケア・ワーカーと、ゆっくりと死を待つ患者たちとの最後の日々。読みながらこみ上げてくるのは、人間のどうしようもない無力感なのに、風前の灯火であっても輝く命の美しさや人が生きるときの尊厳にじんわり胸が熱くなる。中学生みたいな感想で申し訳ないが、斜に構えて読むクセがついた、トウの立ったレビュワーが素直に感動させられてしまう小説なんて、なかなかないのだ。
母親を看取った体験を綴った『家庭の医学』(朝日新聞社刊、のちに朝日文庫)、両親との関わりと死、そしてその両親のもとで培った自己を見つめた『若かった日々』(マガジンハウス刊)など他の作品を見ても、レベッカ・ブラウンは確かにリアリスティックな介護文学の名手に分類されるだろうし、そうした作家としての人気が高いかもしれない。
しかし彼女は、写実的な作風とは真逆の、非常に幻想的で狂気すら孕んだような作品も数多くものにしている。田舎のコテージで二人きりの新婚旅行をするはずが、夫の友人が次々と訪ねてきてだんだん精神のたがが外れていく妻の語り「結婚の悦び」や、完全な共同体を目指すため、ピアニストの恋人の目を潰し、自分の耳を焼いた画家の愛の果ての物語「私たちがやったこと」(ともにマガジンハウス刊『私たちがやったこと』に収録)。未邦訳の「The Terrible Girls」という作品もクレイジー。若い女性が腕を外して貸すという、川端康成の「片腕」ととても似たモチーフが使われている。
本書『犬たち』は、ほぼこの幻想譚の系譜に属するわけだが、白昼夢のような色合いはぐっと深い。というのも、暴力的な愛のかたちを継承するのは、女と犬だからだ。
もう若くはない女のアパートに、犬が入り込んでくる。黒くて痩せていて、恐ろしいほど美しい雌犬。当初、語り手の<私>は犬を保護する。話し相手に選び、気に入りそうな骨を買い与え、つましい部屋に<彼女>と二人きりでいることを幸福だとすら感じている。やがて<私>はときに一人になる時間を欲するようになる。しかし犬は相変わらず部屋にいて、次第に横暴さを増し、<私>を監視し、支配し始めるのだ。
<彼女がいることを重苦しく思っても、それと同じくらいに、私は彼女を必要としていた>ために、女は犬を追い出すことも、自分が出て行くこともできない。この関係って何かに似ていないか? 重なったのは、くされ縁を持て余している恋人同士の姿だ。そう思うと、この小説が、倦んだ関係が行き着く先を描いた濃密な恋愛小説にしか見えなくなってくる。
犬の数は増え続け、犬たちは<私>のベッドを満たす。<私>のスペースなどないほどに。<私>と犬たちは、どこに向かうのだろう。それを追って、両者の特異な関係にどっぷり浸かり、<私>側か犬側かに身を置いて読むほうが楽しめるだろう。
擬人化した何かが出てくるようなファンタジーは苦手? いやいや本書はファンタジーではない。計算され尽くした寓話だ。実際、収録されている25の連作は寓話のスタイルを踏襲していて、各編のタイトルと一緒に、どんな教訓についてのお話なのかが記されている。たとえば、<1犬──神の内在について><2身体──貞節について><3家庭──忠実さについて>という具合に。
もっとも、小説内に示されている寓意はときに正反対のことだったり、まったくはぐらかされていたりと、額面通りにはなっていない。原題にわざわざ「MODERN」と冠がついているわけはその皮肉を利かせてのことだろう。
おまけに、従来の寓話のように、危機に陥った主人公を誰かが助けてくれるわけではない。置かれた状況に対して、<私>があくまで自力で折り合いをつけていくところがいかにも現代的だ。
支配、被支配を描く重苦しいだけの小説かと思いきや、ネオナチ風の出で立ちで登場するミス・ドッグの言動や、風船女になってしまった<私>が犬たちに洗われている様子など、官能やひねったユーモアも入り交じる。
童話のパロディあり、マザーグース風あり、演劇の台本形式ありと、作風はバラエティーに富んでいる。テーマも、独特の言葉のリズムが散文詩のように心に響く文体も、極めて個性的。読書の楽しみを存分に味わえる、レベッカ・ブラウンの新たな傑作。
☆☆☆☆★
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
---|---|
おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |