『わたしを離さないで』でカズオ・イシグロが見せた、圧倒的な構成力/一人称の語り/アイディアの衝撃は、邦訳刊行から3年以上が経ったいまでも、いささかも減少していない。おだやかなキャシーの一人語りで始まる幼少期の回想は、エピソードが積み重なるうちに、晴れたうららかな陽気の公園にしだいに重い雲がたれこめていくように、不穏当な雰囲気に支配されていく。最終盤にいたり、その陰の正体が了解できたとき、読む者はそのSF的な仕掛けと、生命倫理というべきテーマに虚をつかれるのだ。
デビュー作から『日の名残り』などの出世作などを含めて、一貫して重厚な長篇小説を発表し人気を博してきたイシグロの、(いまのところ)最高傑作といえる一冊が『わたしを離さないで』である。
さて、そんな長篇作家が、軽やかながらどこかほの哀しい短篇集を発表した。
「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」とサブタイトルにあるように、5篇すべてに音楽が流れる。場所も登場人物も異なるが、時代設定はほぼ現代であり、世界大戦も近未来も出てこない。つまり、これまで長編で見せてきた[大きな物語の枠組み]をいわば封印して、小さな個人の人生を繊細に描き出したのが、この作品集である。
ベネチアの流しのギタリストは、往年のアメリカ人歌手とぐうぜん知り合い、彼が妻に向けて行なうサプライズ演出に協力する。結婚歴30年の妻に対し、老歌手が抱いている感情の複雑さ、その屈折に触れたギタリストは……。(第一篇「老歌手」)
ビバリーヒルズで整形手術を受け、美男に生まれ変わろうとしているテナーサックスが手に入れたいのは、仕事上の成功。そして、元妻からの愛……。(表題作「夜想曲」)
音楽観において、ソリが合わなくなった中年夫婦が、旅先のイングランドで若きシンガーソングライターと交流を持つ。その一瞬に訪れた、凪ぎの関係性……。(「モールバンヒルズ」)
ここでは、特定の楽曲や旋律が「人間の一生」の比喩として使われはしない。あくまでも、音楽とともにある人生の、滋味を描くことに主眼がおかれているように、読める。
(とりわけイシグロの)長篇の魅力が、そこに登場する人物たちのホール・オブ・ライフをじゅうぜんに提示してみせることだとしたら、短篇の魅力とは、そこに書かれていない残りの時間を読者に想像させることにあるのだろう。いわば、残響の効果を狙うのだ。
老歌手は、包帯のとれたあとのサックス吹きは、旅行から戻った音楽家夫婦は、「その後」をどう過ごしたのかな――。
ついつい、読者をそんな想像にふけらせてしまうのだから、なるほど偉大なる長篇作家は、短篇もうまいものだ。
ただ、イシグロにはやっぱりガツンとした長篇を! と望んでしまうのも読む者の偽らざるホンネだろう。読者とはあまりに身勝手で、ワガママなもの。
というわけで、本短篇集は、☆☆☆☆。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |