今から11年前、皆さんはどこで何をしていたでしょうか? いきなり問われて、ああ、それなら新婚早々、成田空港で派手な夫婦喧嘩をやらかし、かみさんを残して1人、ラスベガスに行き、ヤケを起してカジノですってんてんになり、帰りの飛行機代もなかったので、そのままアメリカの地に留まって、今はシアーズ・アンド・ローバックに務めています。もちろん、不法滞在です! といったふうな、明確な答えが返ってくる人は非常に稀なのではないでしょうか。よっぽど記憶に刻まれるような慶事もしくは凶事があった場合は憶えているかもしれません。あるいは11年前といえば1998年で、1998、という数字とともに記憶を旅してみれば、チラホラ出てくることもあるでしょう。
ちなみに筆者がいますぐ思い浮かべることができる「1998年」とは、サッカーのワールドカップ(フランス大会)に日本が初出場し、「いくらなんでもジャマイカ戦には勝つでしょ」と楽観的な賭けをして、見事に日本が負けたので、翌日は床屋に行って、数十年ぶりに丸坊主になった、という、どうしようもなくしょぼい思い出なのです。
と、こんなことを書いてみたのは他でもない、11年と2ヶ月、全132回にわたって連綿と続いていた連載がついに完結し、1冊の本にまとまって世に出たからです。タイトルは『時間のかかる読書』。ああ、なるほど。副題が「横光利一『機械』を巡る素晴らしきぐずぐず」というもので、「時間のかかる」「ぐずぐず」といったあたりで、ただならぬ時間の長さが再確認されています。
【繰り返すが、ある日、ふと横光利一の『機械』を読もうと思った。それ以前に一度、さらっと読んだことはあったが、一時間ほどで読んだかもしれないし、読点によってだらだらつながる文体になじめず、もう少し時間がかかったかもしれない。だが、『機械』を読み、それについてエッセイを書くにあたって二つの指針を決めた。
「なかなか読み出さない」
「できるだけ長いあいだ読み続ける」
なぜそう決めたのか、いまとなってはもうわからないのだ。】
こんなことを書かれて、読者はポカーンとするほかはないのです。「なかなか読み出さない」って何でだよ? と、ツッコミたい気持ちは山々、しかしそこは暖簾に腕押し、なにしろ「いまとなってはもうわからないのだ」から、理由はもはや誰にもわからない。しかも、もしこれが数ヶ月前の出来事であれば、著者の開き直りと受け取ることもできそうだけれど、なんたって11年前…… ま、そういうものかもしれないねえ、と思うほかないのです。
【初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときどき思った。観察しているとまだ三つにもならない彼の子供が彼をいやがるからと云って親父をいやがる法があるかと云って怒っている。畳の上をよちよち歩いているその子供がばったり倒れるといきなり自分の細君を殴りつけながらお前が番をしていて子供を倒すと云うことがあるかと云う。見ているとまるで喜劇だが本人がそれで正気だから反対にこれは狂人ではないのかと思うのだ。】
お察しのとおり、むろんこれは宮沢さんの文ではなく、『機械』の冒頭部分です。なんだかおかしな文章ですよね。わざとヘタクソに書いているようでもあるし、書いている人自身が「狂人」あるいはパラノイアめいているし、いったい「云う」を何回書けば気が済むのか。「私は私の家の主人が……」というところもヘンだし、だいいち「本人がそれで正気だから反対にこれは狂人ではないのか」という論法も、わかるようでよくわからない。むろん、この文章を書いたのは作家・横光利一であり、「狂人」ではない、ということになっていて、しかし横光=狂人、という可能性も…… いやいや、こんがらがってくるのでもう止しましょう。
『時間のかかる読書』は、1時間もあれば読めてしまう『機械』という短編小説を、途方もなくゆっくりと、時間をかけて「ぐずぐず」読んでみようという試みです。「速読」の対極にある、このうえもない遅読。これは『一冊の本』(朝日新聞出版)というPR誌に連載されたものですが、さすが11年2ヶ月、132回も続いただけあって(?)、連載開始からはじめの3回目までは、『機械』を読み始めることすらしておらず、読み始めるのはようやく連載4回目からなのです。
【『機械』
いきなりぽんと置かれたような題名が印象的である。とてもいい。だが、いくら二文字の言葉をそこにぽんと置いたとしても、『配膳』ではだめだろう。あと、『漆喰』も。なんだか、書いても仕方がないことを書いてしまったような気がする。】
「なにを書いておるのだ、あんたは」というツッコミは、むしろ著者の歓迎するところかもしれません。なにしろ時間のかかる読書です。これが連載の1回目で、2回目は岡崎京子の『リバーズ・エッジ』がいかに傑作かということを書いており、3回目は「球技人口」なる概念についての考察であって、繰り返しますが、4回目でようやく『機械』の読みが開始されます。読者の側もできれば、「そうだなあ、『配膳』も『漆喰』もダメだが、『地元』『備蓄』なんかもダメな気がする」といった余裕がほしいところでしょうか。
しかし、『時間のかかる読書』を読み始めてすぐに気が付くのは、あっ、いままさにこの本を読んでいる自分は、「ぐずぐず」どころじゃない、「ぐんぐん」読んでるじゃん、ということではないかと思うのです。いや、もちろん、『時間のかかる読書』を「素晴らしきぐずぐず」状態で読んでも、それはまったく自由なのですけれども、「ぐんぐん」読めてしまうということは即ちおもしろくってしょうがないということであり、それに、本書の冒頭には『機械』がちゃんと収録されていて(親切!)、この『機械』は皆さん、やはり「11年2ヶ月」ではなくて「1時間」もかからないくらいの時間で読むのでしょうから、そうして「はずみ」が付いた状態で読む『時間のかかる読書』は、実に「時間のかからない読書」であり、「ぐずぐず」は「ぐんぐん」に取って代わられることになるのではないか。
コンピュータの概念に弱いので間違っているかもしれませんが、ここで起こっていることは「圧縮と解凍」みたいなことではないかと思います。『時間のかかる読書』という1冊の本を買ってきて読む、つまりページを開くとただちに「解凍」が始まり、読者は「11年2ヶ月」分を圧縮した濃厚なデータを堪能することができる。そういうことなのではないかと。
著者の宮沢章夫さんが、「ある日ふと」、横光の『機械』を読もうと思った、ということについては、これは特に企みや秘められた狙いがあったと勘ぐったりせず、字義どおりに受け止めるのがいいでしょう。しかし、『時間のかかる読書』を通読してみればわかると思いますが、やはり『機械』という小説は奇妙な構造と文法を内包していて、たいへんおかしな作品だという印象を受けると思います。『時間のかかる読書』は、その印象をいわば「増幅」させたもう一つの「機械」であるのかもしれず、であればこそ、その行為には「時間」がかかるのだと考えられるかもしれません。
『時間のかかる読書』の良いところは、これは著者も書いているとおり、1冊まるごと、「冗談」だということです。よく、「解釈の多様性」とか、「読みの多義性」とか言われますが、「多」を旨とする批評の本というのはたいてい生真面目で、少しも多様性があふれ出てくる感じがしないのに対し、よくできた「冗談」というのは、ほんとうに面白いのです。
読書にとって、停滞とは豊かさである。そのことを雄弁に示したことと、にもかからわずこの本そのものは、「ぐずぐず」どころか「ぐんぐん」読めてしまうというその無類の面白さに対して、☆☆☆☆☆です。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |