『海辺へ行く道 夏』のカバーを見て、「あ。なんだっけな、この感じ」と、しばし気持ちが騒ぐ時間があった。けっきょくわからないまま本を買うことにし、家でページをめくってようやく思い出した。そう、こちらから向こう側をみつめているこの感じ、その「こちら側」の背中にカメラがさらに引いて、「こちらから向こう側をみつめている人」を風景の中にポンと置いたこの感じ、ああそうだった、三好銀さんなのだったと、ようやく得心したのである。
漫画の知識が乏しいので、本書の帯に書かれていることをそのまま書き写すと、「長い沈黙を破り、再び漫画界に舞い戻った異才・三好銀」とある。また、「漫画界のマイナー・ポエット」とも。漫画ファンのあいだで今回の新刊がどのくらい待ち望まれていたのかはわからないが、「マイナー・ポエット」の惹句がいかにもソソる。果たして、期待にたがわぬ、実にstrangeな作品集だった。
収録されているのは、「遅いランチタイム」「回文横丁」「海辺へ行く道」「夏休み新聞」「高岡刃物商店」「残暑物語」の六篇。いずれも季節は夏、どこか海辺の地方都市を舞台に、その町に住む人々や、一時だけ滞在する人々、出自も行方も曖昧な人々などが、老若男女混在して、季節の点描のように映し出されてゆく。小説でいえば、いわゆる「連作短編集」といったところだろうか。中学二年生で、絵でも造形でも、美術に傑出した才能を見せる南奏介くん、という人物が、いちおう中心にいるらしく見えなくもないが、しかし南くんが登場するのも二作目の「回文横丁」からだし、求心力のある中心ではまったくない。
おそらく、南くんがそれなりに中心に位置するようにみえるのは、そこがいわば、ニュートラルコーナーであり、読者の気持ちを落ち着ける場所だからだと思う。つまり、この連作集においては、およそ南くん以外のほとんどの登場人物が、ことごとくどこかしら奇妙であり、ゆるやかな日常性のすぐ裏側に異界を宿しているような、濃厚にダークなものを身内に抱えているような、そんな存在なのだ。
といって、そうした人々は、いかにも異形の者、という姿かたちをしているわけではない。いたってごくノーマルに見えながら、例えばある瞬間、急にいなくなって、なにやらアウトローの世界に生きているかのような風説が流れてくる男。学校の新任教師、という市民社会に溶け込んだ存在のように見えて、あれは実はまだ子どもだったのだ、という噂があとから流され、「そういえば座ったところしか見たことがなかった先生」として回想される男……。
『海辺へ行く道 夏』は、おそらく意図的に、カメラ・アイとしての作画方法を取っていると考えられる。登場人物の心理を時間軸に沿ってトレースし、何事かが起こりうるタイミングで、それなりの事件を起してみせるというやり方とはまったく異なり、ここでは、起きることはすべて唐突に、しかもグロテスクなかたちで生起する。本書の最終197ページが、黒画面に「Fin.」の文字で終わっているのがその証拠だ。映画のカメラが画面に映していくのが、目に見えない「心理」などでなく、正しく「アクション」と「風景」なのだとすれば、この作品集の文法もまたそれである。「アクション」が「唐突」に起こったような「心理」状態に読者を陥れ、「なんでこうなるの?」「なんだよこれは」と動揺させてしまうのがこの作品の魅力であり、涼しい顔でそれらを「風景」として描き、まぎれも無い、第一級の仕事になっている。
そして、『海辺へ行く道 夏』がすごいところは、当たり前だがこれは映画ともまた異なる表現、つまり二次元のすさまじさが突出している部分で、いちばんあからさまなのは、別荘なのか誰かの所有する住まいなのか、まるで書割のようにしか見えず、カバーの絵で、かろうじてわずかにその外観の一端が垣間見えるものの、およそ全体がどんな佇まいなのか判然としない、あたかも断崖絶壁に位置しているかのように見える建物と海との関係である。
【ここからイルカ見えたんですか】
【イルカ来ないなあ】
どうやら、海から飛び上がるイルカの姿までも、部屋の中から見えるという、そういう構造になっているらしい建物と海は、絵という二次元表現によって、互いにあまりに隣接した位置に描かれ、いちおう陸の上に立っているはずのその建物が、あたかも床一枚はがせばすぐ下が海であるような、そんなむき出しの不安定さ、寄る辺なさを獲得しているように思われる。
『海辺へ行く道 夏』にあらわれる無気味さ、唐突さ、グロテスクさを表象しているのはまさに絵の力であり、それは他にも、例えば端的にサイズの問題としても現れる。『海辺へ行く道 夏』では、通常の規格に比べて、極端に大きなもの、極端に小さなものがしばしばあらわれる。かつてホテルの建設予定地であり、いまでは土壌汚染の疑いがあって立ち入り禁止になっている場所では、敷地内で異常に大きなザリガニが見つかったり、その敷地内に潜入して十日間を過ごした高校生カップルが、警察に補導されて親に引き渡される際、十日前と比べて異様に背が高くなっていたりする。
およそ人間の頭の三倍はあろうかという、巨大なサンバイザーを被って、自転車でやってくる女がいるかと思えば、いったい誰が使うのだろう、掌にすっぽり収まるくらいの超ミニチュアのエアコンが海辺に落ちていて、アルカリ単三電池を装着すると、ちゃんと動くどころか、ご丁寧に室外機から熱風まで出るという念の入りようである。
顔、についてもまた、strangeである。特に、目。海辺だからサングラスをしている人物がいるのはいちおう、当然として、しばしば登場人物たちは、眼帯をすることを余儀なくされる(この点では、南くんも眼帯組の一人だ)。息子の嫁に良からぬ悪戯をする老人の場合、この人は眼鏡をかけているのだが、眼鏡の奥の目は、どういうわけかほぼ、片目しか描かれない(両目を描いたカットも皆無ではないところがまた奇妙である)。こうしてなぜか、目はしばしば、遠ざけられてしまうのである。
「遠ざける」といえば、これは三好銀さんの絵の特徴の一つだと思うが、二つの目と目のあいだの距離が、我々が普段、なじんでいる(?)漫画のそれよりもいささか遠く描かれており、つまり、目と目が離れているのである。しかもその目は、これはそういう言い方をしてもけっして失礼に当たらないと思うので書くが、「こういう目、どこかで見たな。どこだっけな」と考えていて思い至ったのが、そう、あれは福笑いの目、ではないか。
今では、正月になってもほとんど誰もやらないだろうが、目隠し(!)をして人為的に人の「顔」を作っていく、あの不思議な遊び。そこでは、目や鼻や口といった、顔を構成する各パーツが、常識的なポジションに置かれないことで、ゲーム終了後に(目隠しを取ったあとに)みんなでゲラゲラ笑いあう。思えばあれはほのぼのしているようでなかなかにグロテスクな遊びで、そのグロテスクさは、「顔」の問題を超えて、『海辺へ行く道 夏』という作品集そのものと響きあっているようだ。
いろいろ書いてきたが、この作品集が傑出しているのは、そして真に怖ろしいのは、グロテスクさの、その扱い方ではないかと思う。普通、異界がぬっと顔を出すとか、異形の者が画面を横切るとか、そういう場面はハイテンションないしはクライマックスになるものであり、登場人物のあいだには緊張や拒絶などの感情が奔るものである。その緊張や拒絶が、『海辺へ行く道 夏』には、まったく無い。だから読者は、ゆるやかに推移する物語の流れを追いつつ、唐突に「うっ」と驚かされたり、なにやら気味の悪い思いをして、しかしいつのまにかそんなstrangeな出来事も、ふっと風景の中に溶け込んでしまう。
これはいかにも、気持ちの持って行き場がない読書になるはずである。しかしこの宙吊り感は、どうしたわけか、なかなか悪くない。確かに、漫画という表現形式でしか経験できない何かが、スッと自分を通過したように思えるのである。
今回、エンターブレインから、この『海辺へ行く道 夏』と同時に、『いるのにいない日曜日』が発売されている。こちらは、幻の名作といわれる『三好さんとこの日曜日』の後日譚ということで、それこそまさに、ファン待望の一冊だろう。件の名作を入手できていないので、『いるのにいない日曜日』のレビューは書けないが、発刊の事実だけはお知らせしておきたい。
また冒頭、「こちらから向こう側をみつめている人」の記憶について書いたが、これは小説家の角田光代さんと三好銀さんの共著『西荻窪キネマ銀光座』(実業之日本社)のカバーの絵を思い出してのことである。この本は、「西荻窪キネマ銀光座」という架空の映画館を想定し、角田さんのエッセイと三好さんのコミックがコラボレーションした内容で、同じ映画(全部で二十三本ある)に対して、小説家と漫画家がそれぞれどうインスパイアされたのかが味わえる、スリリングで愉しい本である。
こちらは絶版状態だが、けっこう古書店でも見る本なので、見かけたら、ぜひ。
と、いうことで、漫画の持つ可能性の怖ろしさに震えつつ、☆☆☆☆☆です。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
---|---|
おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |