この「Book Japan」のレビュアーとしても活躍するコピーライターの小玉節郎さんは旅取材の名人で、日本全国を歩いて酒を飲んできた経験がある。小玉さんによれば、仕事が早く終わって宿の部屋に入ったはいいが、酒はあるけどつまみがないというときは、茶筒の茶っ葉をかじりながら酒を飲むという。お茶のうまみはグルタミン酸に似たアミノ酸だから、十分にあてになるのだそうだ。そういう話が、著書『東西南僕』(柏艪舎)にたくさん載っている。
「つまみは塩だけでいい」とか「茶っ葉で酒が飲める」と聞くと、じゃあもともとつまみなんか食べずに酒だけ飲んでいればいいじゃないかと言い出す人がいそうだが、酒とつまみがあって初めて酒席が整うのであって、つまり私たちは単にアルコールだけでなく、それ以外の何か――例えば人生の潤い、を酒に求めていることが分かる。
アルコールだけを欲するのはアルコール依存症であり、アルコール依存症患者は酒をうまいと思わないそうである。無類の酒飲みとして知られ、2008年夏に亡くなった漫画家の赤塚不二夫さんも、常日頃「おれ、酒、本当は好きじゃないんだよ。うまいと思って飲んだことないもん」と言っていた。酒の力を借りないと、怖くて人と話ができないのだと話すのを聞いたことがある。
それに比べれば、塩であろうが茶っ葉であろうが魚肉ソーセージであろうが、つまみをあつらえないと酒が飲めないというのは自制が利いている。本当は、酒が飲みたいから塩でも茶っ葉でもギョニソでもいい、という話なのだが、酒を目の前にして「今日はいいつまみがないから、やめておこう」となれば、酒飲みの鑑であろう。そういう人がいるかどうか知らないが。
本末転倒という気がしないでもないけれども、同じようなことは酒に限らず、世の中にたくさんある。例えば私はひと頃、外で昼食をとるのに傍らに何か読むものがないと落ち着かなかった。ちょうど持って歩いていた文庫本を読了してしまったなんて日は、ランチの場所を探すより先に、めぼしい本を見つけるのに街を30分ばかり歩き回り、肝心のご飯を食べる時間がなくなった、ということがよくあった。
今では私も加齢に従って頭の回転が鈍くなり、脳内時間が経過するのが遅くなってきたので、昼食時や通勤中の30分とか1時間なら、読書によって外部刺激を入れなくても、自分の頭の中であれこれと考えをこねくり回して過ごせるようになった。しかし、中には通勤電車の中で読む本がないと、手持ちぶさたが高じてパニックに陥る人もいるらしい。
アルコール依存症に勝るとも劣らず、活字依存症もまた生半可ではないようだ。今回紹介する外山滋比古氏の『ことばの教養』の中に、「辞書を読む」という一項がある。冒頭から少し引いてみる。
<いよいよすることがなければ、電話帳を読む。そういう文章を読んだことがある。そんなものおもしろいのだろうか、というのは知らないもののせりふ。たまらなく楽しい、とあった。(中略)そういう話に比べると、辞書を読むのは、はるかに正統的で、むしろ常識的すぎて気がひけるくらいだ。そもそも字引きなどと言って、引くものと決めてしまっているのがおかしい>
電話帳や辞書までを「読書」の対象にする人がいるのだから恐れ入る。が、おかしいと言われても、やはり辞書は「引くもの」だろう。一体、辞書のどこが読んで面白いのか。外山翁はこう述べる。<辞書を読む人間からすると、この次に何が飛び出してくるか、予測を許さないところが実に愉しい。よその町をそぞろ歩きするのに似ていなくもない。郵便局の隣が魚屋でその先がお寺だったりする>
そこで試みに手元にある『大辞林』で「辞書」の項を引いてみると、一つ後ろに「璽書」がある。「天子の印の押してある文書」とある。四十数年生きてきて、初めて見る単語である(御名御璽という言葉は知っているから意味は大体分かったが)。そして、そのすぐ後ろには「次女」がある。この単語を知らない大人は皆無であろう。
なるほど、面白くなくもない。余談になるが、ある人が「平均的な日本人像」を見たければ、運転免許証の書き換えに行けばいいと言っていたのを思い出す。私たちは大方同じ仕事をして毎日を過ごしているので、目にする人間の類型がおのずと限られてくる。朝の通勤電車には一見雑多な人間が詰め込まれているが、実際は例えば東京都心にある朝9時始業の会社に勤める人の集合としてくくれる可能性がある。相当濃いバイアスがかかっている。
それに比べれば、書き換えのため運転免許センターを訪れる人は、互いに誕生日が近い(2カ月以内)老若男女の集合である。誕生日は偶然に支配される(自分では選べない)から、大ざっぱに言えば日本人全体の部分集合となる。運転能力のある人に限られるから「無作為抽出」とまではいかないが、実際にはこれ以上に出自や属性をシャッフルされた人間の群れに触れる機会はないのではないか。