やや結論めくが、「最高の人生」とは「最高の人生とは〝たいそうな給料をもらい、テキトーに仕事をする〟ことである」と信じ込んで恥じないことであろう。元課長補佐は「最高の人生」をあがなう代償として、矜持を捨てることを求められた。それに応じるさまははたから見ていて醜い。本の中では元2等陸佐が「こいつは大人だ」とつぶやくが、正確に言うなら、これが「老い」なのだ。元課長補佐もまだ醜さを自覚しているが、もし矜持を完全に捨て去ってしまえれば恥ずかしさはなくなり「〝たいそうな給料をもらい、テキトーに仕事をする〟こと」だけが意識され、ただ幸福感に包まれていればよくなる。
そのありようは、先述したようなわれ先に電車の空席目がけて突進してしまう老人の姿と同じである。まるで自分が失禁していることを知らずにいるかのように欲望を垂れ流しにする。何も天下りに限らない。〝たいそうな給料をもらい、テキトーに仕事をする〟ほどではなくても、私たちが何かに幸せを感じるとき、私たちは別の何かをいけにえに差し出し、それに目をつぶっている可能性がある。
民主主義の本質は権利と権利の相克であると先に述べた。そのヒリヒリした緊張関係を中和するのが、他人を信じる覚悟と矜持、つまりは「やせがまん」であるとも述べた。もし、やせがまんが失われたらどうなるか。権利と権利の相克だけが残る。言い換えれば「弱肉強食」の世界が析出する(アメリカが「民主主義」の名において一方的にイラクを侵略した事実を見よ!)。
強者は弱者に「身のほどをわきまえろ」と言い渡し、なにがしかの配給を行う。弱者は強者に媚び、なにがしかの配給を受け取って「身のほどをわきまえる」ことに慣らされる(大企業は派遣労働規制を「非正規労働者の職を奪う」として非難するが、非正規労働者自身が最低賃金の底上げを求めると「国際競争力を落とす」として非難する。「民主主義国家」こと日本の実態を見よ!)。かくして民主主義は自壊し、擬似的な身分制社会に落ち込んでそれなりに安定する。
本の中身に戻れば、元課長補佐と元2等陸佐は、神田分室を仕切る理事のもとで身のほどをわきまえている限りにおいて「最高の人生」を保障されるのだ。だが、彼らは身のほどをわきまえることをやめる。知恵袋でもある秘書兼庶務係と3人で、神田分室の「仕事をしてはいけない」という不文律を破り、仕事を始めるのだ。「仕事」とはJAMSの本業、債権の回収である。矜持を捨てる痛みを麻痺させるモルヒネとしての「老い」を拒否し、やせがまん(作者は「矜り(ほこり)」という語を使っている)を貫くことで、3人はそれぞれの「ハッピー・リタイアメント」を手に入れようとするのだ。
しかし、とっくに金銭消費貸借契約の時効を過ぎている不良債権をどうすれば回収できるのだろうか。それは中身を読んでからのお楽しみ……と本来は流していくべきなのだろうが、なぜか作者は冒頭の「プロローグ」部分で早くも一つの種明かしをしている。そこには「アサダ」という小説家が出てくる。著書に『プリズンホテル』や『カッシーノ!』があるというから、一見作者自身をつづっているかのような一風変わった書き出しである。
アサダ氏を訪ねて、ある公的金融機関の職員がやってくる。アサダ氏は30年前、小説家になるずっと以前に、商売を始めるために公的金融機関の債務保証を受けて銀行からカネを借りた。しかし、すぐに商売は頓挫、公的金融機関が返済の肩代わりをした。そしてアサダ氏はその後、公的金融機関に対する負債を踏み倒して行方をくらましていたのである。
ところが30年後、公的金融機関の職員がベストセラー作家になったアサダ氏のもとを訪れた。アサダ氏はむろん時効を過ぎた借金などびた一文払うつもりはない。職員の側も「カネを返せ」とは一言も言わない。定年間近と見える年配の男性職員は、自分はアサダ氏のファンだと言い、持参した『壬生義士伝』にサインをしてくれと頼むのである。
アサダ氏は一人ごちる。〈精彩を欠いたロートルがひとりでやってきた。私の著作を偶然にも読みながら。その小説のテーマは「男の義」。そしてあとは何言うでもなく、じっと座ってうなだれたのである。そのうちに、私の味方であるはずの三十年の時間が、次第にちがう形に変わってのしかかってきたのだった〉。アサダ氏は結局、法的には返すいわれのないカネを返すことになる。アサダ氏はこの降ってわいたような出来事に触発されて小説を書き始める――というところでプロローグは閉じられ、次章からJAMSを舞台にした物語が展開し始める。
実際に作者にそのようなことがあったかどうかは知らないし、別にどちらでもいいことだ。だが、なぜ作者はあえて「ネタばらし」めいたことを冒頭に持ってきたのか。プロローグがなくても小説自体は成立している。もしかしたら作者は「読みどころ」を最初からはっきり示したかったのではないか。一冊読み終わってふぅ~と一息つき、本の主題を心の中で反芻しながらパラパラとページをめくり返す……などという余裕が、今どきの読者に果たして存在するのか、作者はあてにできなかったのではないか。
読み間違いを恐れずに言えば、この小説の一つの大きなテーマは「信義」である。金銭消費貸借契約というと仰々しくて、すべては捺印された書類によって一寸の曇りもなく四角四面に進むように思うが(確かにそうではあるが)、突き詰めれば契約が成り立つ根拠は、互いに「信じる」という非常にあいまいな人間的な営みにある。いくら借用書があるといっても確実に返済される保証はない。借金を踏み倒す人は大勢いる。そうでなければバブル崩壊後に「不良債権処理」で日本経済が大騒ぎする必要はなかった。