確かに自分から言い出したことではあるのだ。だから嫌いな作業ではない。にんじんと玉ねぎとツナ缶からナポリタンをこしらえるのが大げさに言えば創造であるなら、皿に残ったケチャップの汚れを白い泡で包み込んで流し去るのは再生である。
コンビニ弁当の空き殻を「燃やすゴミ」に、一緒に買ったお茶のペットボトルを「資源ゴミ」に分別することがエコロジーだと言われる昨今にあって、台所で一日に何度も繰り返されるその小さなループは、死んで元素に還る以外、ただ自然を消費することしかできない人間にとって、せめてもの善に連なるあがきである。持続可能な社会を可能にするには、エコカーとかエコ家電とか何か物を買うのでなく、自分の体を動かすことだ。
とはいえ、15分後には駅のホームに立っていなくてはいけないのに、シンクに積み重なった食器の山と格闘する私にそんな心の余裕はない。あらかた片付いたと思ったら、洗いおけの濁った水の底にスプーンが大小10本も沈んでいた。「こんなに一体、何に使うことがあるんだ」と私は朝食をこしらえた家人を思って、軽く舌打ちをする。スポンジの泡が消えそうだ。私は急いでスプーンをこする。しかし、この泡の量ではいくらこすってもスプーンに残ったバターのぬるぬるを落とせない。私は仕方なく洗剤を足し、10本のスプーンを最初から洗い直す。これを二度手間と言う。遅刻決定だ。私は大きく舌打ちをし、「だからこんなに一体、何に使うことがあるんだ」と家人に本気で腹を立てる。
毎食後の食器洗いの役目を買って出たのは、私自身である。結婚して暮らし始めたその日からの習わしだ。だから、洗い物が多いといって家人に腹を立てるのはお門違いだと分かっている。では、私は何に怒っているのだろう。何度かそういうことがあって、結局のところたどり着いた答えは、もっとふんだんに洗剤を使い、白い泡をもりもりと立てて洗えばよかった――ということだ。それならスプーンが何本あろうが、私は鼻歌まじりでスポンジを使うだろう。小賢しくも洗剤の使用量を最小限に抑えようとするから、泡が途中で消えはしないかと焦る。その焦りが「洗い物が多すぎる」という思考を生むのだ。そうではない、私が最初にスポンジに吸わせる洗剤の量がそもそも少なすぎるのである。
日常のくだらない内輪話ではある。そんなことをなぜだらだらと書いたのかといえば、「怒り」の正体を見つめてみようと思ったからだ。現代は怒りの時代だ。私たちは日ごろ、実につまらないことで腹を立てる。肩がぶつかったと言って、いい大人同士が駅のホームでけんかになる。そのはずみで線路に落ちて電車にひかれる事故もたまに起きる。死ぬほど腹が立つとはたとえ話であって、本当に死んでしまっては元も子もない。
怒りは心と体のエネルギーを最も手っ取り早くひねり出す方法だ。現代社会に怒りが満ち満ちているのは、それだけ現代人の心と体が疲れている証しだろう。つまり、怒りは手段であって、それ自体は意味を持たない。朝の台所で私はスプーンに、ましてや家人に腹を立てているのではない。泡が消えそうなスポンジで洗い物をする、そのいらだたしい(津軽弁の「かちゃくちゃない」が一番当てはまる)状況を怒りのエネルギーで乗り越えようとしているのだ。
怒りはわが身の内にある。当たり前じゃないか、と言う人もいるだろう。その通りには違いない。しかし、大抵の場合、怒る相手、対象は自分の外側にある。すると、怒りの源も外側にあるように錯覚する。自分が怒っているのは肩をぶつけてきたこいつだ。だから、そいつを殴る。では、殴ったからといって怒りが収まるか? そんなことはない。怒りは膨れ上がって、手が付けられなくなる。怒るからこそ、赤の他人を殴れる。
私は泡の消えたスポンジでこすったスプーンを次々にステンレスのシンクに放り投げる。耳障りな音が居間にまで響く。むろん家人に聞かせるためだ。何を? 私の怒りをだ。お分かりか、私は何かに対して怒っているのではない。怒りたいから、怒っている。私の中にある怒りを分かってほしいから、怒っているのだ。
そのことに気づいてから、私は台所用洗剤を惜しげもなくポンプから押し出すことにした。怒りの源もまたわが身の内にあると分かれば、それを除くのにためらいはない。駅のホームを肩をいからせて歩くバカを見たらよけて通るようになった。以前は道を譲らなかった。一触即発のにらみ合いになったことも何度かある。また、階段の「上る」側を下りてくるバカもいる。そういうときは、しっかりぶつかってやるのがバカを矯正する「教育」だと思っていた。