ところが、この本の中で19歳の若き親鸞(そのときは「範宴(はんねん)」と名乗る)に、傀儡女(くぐつめ=人形芝居をして各地を回る女性の芸能者)の女がこう打ち明ける場面がある。〈悪いことをした人間は、地獄へおちるんだよね。生前に善いことをたくさんした人たちだけが、お浄土へいけるんだろ? あたしの父さんは、殺生をして暮らしていた。田んぼをもってないから、山で獣を狩ったり、川の魚を捕ったりして暮らしていたんだ。それでも食っていけなくなって、あたしを傀儡の親方に売ったのさ。娘を売る親を、仏さまが許すわけがない。売られたあたしも、そう。体を売ったり、仲間と組んで客をおどしたり、色じかけで男をだましたりして生きているんだ〉
作者が「悪」として傀儡女に語らせていることは、さすがに今では狩りや漁は正業だが、人身売買、売春、恐喝、詐欺はれっきとした犯罪である。つまり、ここで語られる「善と悪」は、21世紀に生きる私たちが考える法概念、倫理感情とあまり変わるところがない。少なくともそれを包含している。考えてみれば、生きる時代は違っても、同じ生身の人間にとって基本的な価値観である「善と悪」の意味がまるで異なるとは思えない。
史実を振り返ると、親鸞は1173年、京都で下級貴族の家に生まれた。9歳のときに出家し、天台宗の本山・比叡山延暦寺で20年間修行した。1201年、29歳のとき京都六角堂で聖徳太子の「お告げ」を聞き、それをきっかけに浄土宗の開祖・法然の弟子となる。法然の教えの中心は、ただ阿弥陀仏の力を信じ念仏を唱えれば、身分の貴賎や犯した罪にかかわらず、誰もが等しく来世で救われるという「専修念仏」である。
悪に手を染めることなしに生きられない民衆に広く支持されたが、厳しい修行は無用、ただ「南無阿弥陀仏」と念仏すればよいという教えを、比叡山をはじめとする既存仏教は危険思想だとして強硬に攻撃した。1207年には、朝廷によって法然門下の4人が死罪となり、法然は四国、親鸞は越後に流された。
流罪に際して親鸞は「もしわれ配所におもむかずんば、何によってか辺鄙の群類を化せん」と言ったといい、布教のチャンスととらえたふしもある。事実、流罪を解かれた後も京都に戻らず、布教の地を関東に求めている。関東には20年とどまり、そこで浄土真宗の基礎が築かれた。また、思索の神髄は主著である『教行信証』としてまとめられつつあった。宗教者として、最も充実していた時期と言っていいだろう。
が、上下2巻の長編小説としてつづられているのは、貧乏貴族の子弟として鬱屈した日々を送る少年時代から、師に連座して流罪となる35歳の青年僧でまでの、いわば青春譚である。親鸞が幼くして出家した事情や、比叡山でどんな修行生活を送ったのかはよく知られていないらしい。人々から「お山」と呼ばれ、尊敬の対象だった比叡山を去ったのはなぜなのか。好んで民衆の中に身を置き、それゆえに危険視された法然に師事したのはなぜか。法然から何を学び、どう超えていったのか――日本史に残る大思想家・親鸞として形成された人格の根っこにあったであろうものを、作者は私たちと同じ生身の人間が、迷いに迷いつつ成長していく物語として描くことで、解き明かそうとしている。
若き親鸞が最も懊悩したのは、自分の中にある「悪」である。8歳のとき(当時は「日野忠範」という名前だった)、鴨川の河原をすみかとする聖(ひじり=寺院に属さず、隠遁して修行する僧)・河原坊浄寛、ツブテ(小石)打ちの名人・弥七、ホラ坊主と呼ばれる聖・法螺房弁才という変わり者の3人と出会う。浄寛は河原に捨てられた死骸(身分の低い者は葬式も出してもらえなかった)を川の流れに葬ってやる代わりに、その衣服をはいで売る。弥七は狙った標的を外さない腕が闇の世界で重宝されている。弁才は言葉巧みな弁舌で人を集め、托鉢と称して物を売りつける。いずれも堅気とは呼べない生業で、その日の糧を得ている。
忠範は、たとえ貧乏貴族とはいえ身分的には隔たりがあるその3人に不思議と引かれていく。実は忠範自身、祖父が「放埓人」として貴族社会から放り出された人物だった。また、実父も家庭人として失格者で、母親に暴力を振るい、揚げ句に家族を捨てて出家してしまった。忠範は自分にも「放埓」の血が流れていると感じ、それゆえに社会という「埒」の外側で自由に生きているように見える彼らに親しみを抱く。