駅前商店街にあるH書店の品ぞろえの月並みさに我慢ができなくなったからではないのだが、引っ越しをすることになった。それで今、引っ越し代をどうひねり出すべきかでうなっている。引っ越し先とは電車で一駅分しか離れていないのだが、近いからといって料金が安くなるわけではないらしい。
それよりも、午前中の荷物出しを午後にするだけで数万円も安くなるという。確かに引っ越し後のあれこれ始末を考えると、出だしは早いほうがいい。客の希望が集中するから午前中は高く、午後は安い。需要と供給の関係が商品(サービス)の価格を決めるほぼ理想的な経済学のモデルである。
しかし、引っ越し屋のバイト君の立場に身を置いてみると、エレベーターのない集合住宅の3階から100キロの冷蔵庫を二人がかりで担ぎ下ろす仕事量(重さ×移動距離)は午前と午後でもちろん変わらない。同じように肉体を酷使して、その対価が数十%の単位で上下するというのは(私だったら)納得できない。確かにもらう賃金は一定だろう。人件費など経費を差し引いた儲け(営業利益)の幅を伸び縮みさせて商品価格を設定するのが、経営のさじ加減ということになる。
とはいえ、引っ越しはエレベーターのない3階から冷蔵庫を担ぎ下ろす人間がいないと始まらないのである。バイト君が手にするペイは時給1000円ちょっとだとしても、見積もりにやってきた引っ越し屋(零細)の営業担当兼ドライバー兼社長であるところの、還暦絡みとおぼしき薄毛のおやじが今どき鉛筆なめなめ「これでどうですか、即決価格で!」と弾いた算盤を見せて(読めませんから)値引いてみせる「数万円」にも、バイト君が後日エレベーターのない3階から冷蔵庫を担ぎ下ろすときに流すであろう汗はあまねく染み渡っているはずなのだ。
バイト君はわが家がひねり出す引っ越し代の中から時給1000円ちょっとのペイを支払われる意味では引っ越し屋の「部分」だが、バイト君がエレベーターのない3階から冷蔵庫を担ぎ下ろさなければ引っ越し自体が成り立たないから、その文脈ではバイト君は引っ越し屋の「全体」をなしている。
営業担当兼ドライバー兼社長はバイト君に時給1000円ちょっとを払って大盤振る舞いしたつもりでいる。しかし、時給が「1000円ちょっと」であることはバイト君と直接の関係はない。もしバイト君が「僕は毎日3食、松坂牛のステーキを食べないとエレベーターのない3階から冷蔵庫を担ぎ下ろす力が出ないんです」と言い始め、その分の労働力再生産に見合った時給を要求したら、営業担当兼ドライバー兼社長はバイト君をお払い箱にするだろう。
部分は全体の価値を作り上げるが、全体によってしか部分の価値は決められない。これは雇用者と被雇用者という非対称な関係性に起因するのではなくて、営業担当兼ドライバー兼社長が月に1回、松坂牛のすき焼きができるかどうかは、バイト君が時給1000円ちょっとのペイでエレベーターのない3階から冷蔵庫を担ぎ下ろしてくれるかどうかにかかっている。営業担当兼ドライバー兼社長も「部分」であり、自分で自分の価値を決めることはできない。
全体は確実に存在するにもかかわらず、私たちの目に見えているのは常に部分である。引っ越し屋(零細)の古びた社屋(想像だが)も、引っ越し屋の全体ではない。それはただの木造モルタル造りの2階建て家屋であり、全体を形作る部分に過ぎない。全体そのものは目に見えない。
このあたり、ある人の脳の神経細胞1個1個の発火は見えるが、その人がどんなことを考えているかは見ても分からないことに似ている。脳科学者らはある人がある思考や知覚を得たとき、どの神経細胞が発火するか(正しくは発火した神経細胞同士のネットワーク)をいちいち調べ上げ、脳の仕組みを解き明かそうとしてきた。思考や知覚は神経細胞の発火がなければ始まらないが、ある神経細胞の発火にどんな意味があるかは、一まとまりの思考や知覚が立ち上がるまでは知るすべがない。全体からさかのぼって部分が規定される。
この関係は、さらに思考と言葉のかかわりとも重り合う。まずしゃべりたいことがあり、それを発音器官(のどとか舌とかくちびるとか)を使って言葉にする。私たちはそう理解している。しかし、しゃべっているうちにとんでもない方向に話が脱線して、言わなくてもいいことを口走って相手を傷つけることもままある。後で「何であんなことを言ってしまったのか」とひどく悔やむが、実際はしゃべってはいけないことをしゃべり始めているとその場で自覚していながら、「あ、あ」と尿失禁するように言葉は口から漏れていってしまう。ただ思考から言葉が生まれるのではなく、言葉が思考を引きずって突っ走るのである。
内田樹の他作品の書評も収めていますので、お楽しみください。
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