ジュリーについて、精神が不安定なうえに、誘拐されるなんてかわいそうに……なんて思って読んでいると、冷や水を浴びせかけられます。「始末」の場面からなんとか脱出し、たまたまプジョー204で拾ってくれた男が、小心な醜男で、若い娘である自分を下心いっぱいでチラチラ見ているのを「うまく騙してやろう。わたし、躁の時期に入ったわ」と感じながら、途中でクルマを止めさせて次のようなことをします。通りかかった木の垣根のところに何かがいるフリをし、男にジャッキのハンドルを持ってこさせたあげく
【「よこして! 早く! まだそこにいるのよ」
男は、ジュリーの手がジャッキのハンドルをひったくるのを感じた。女は興奮した様子で垣根の下を指している。
「そこ! そこ!」
男は仕方なく体を屈めて見た。ジュリーは男の頭にハンドルを叩き込んだ。こんなことじゃないかと思った。そう考えながら男は四つん這いに倒れた】
実にひどい女です。「こんなことじゃないかと思った」という所がマンシェットだなあ、と思います。救いがないのに、微妙にユーモラス。倒れる時にだって「四つん這い」でしかやらせてもらえません。レ・ミゼラブル!
マンシェットという作家は、1942年にマルセイユで生まれ、残念なことに52歳の若さですでにこの世を去っています。大学で英文学を学んだり、左翼活動にのめりこんだり、ポルノ映画のシナリオを書いたり、ジャズのサックス奏者をめざした時期もあったりと、いろいろ蛇行した人生を歩んだ人のようです。そして、生年からお察しいただけるように……そう、1968年5月の、あの世界じゅうにムーブメントが飛び火した「五月革命」の世代なのです。訳者の中条省平さんの「解説」から引用します。
【あらゆる規則、前提、秩序に異議申し立てを突きつける五月革命の精神は、ミステリーの世界にも浸透しました。そして、従来の遊戯的な謎解きや、類型化したギャング小説を嫌った若い世代の作家たちが、犯罪小説に生々しい社会的・政治的要素を取り入れ、残酷な暴力や露骨な性の描写も恐れることなく、歪んだ現実や狂った犯罪を描きはじめたのです。
その立役者がマンシェットです】
善と悪。被害者と加害者。攻撃と防御。正気と狂気。その境界線を、マンシェットは次々に動かしていきます。マンシェットは速度の作家でもあります。優れた映画が、目に見えない、手で触ることができない「心理」などというものを一顧だにせず、的確なアクションとショットをつないで作品を転がしていくように、『愚者が出てくる、城寨が見える』にも「心理」はありません。「心理」というのは、「話せばわかるかもしれない」「他人と通じあえるかもしれない」という、精神の足踏み状態を指しています。対して、「通じる」ということのあらかじめの断念の上に立った場合、そこに生まれるのは、アクションです。
『愚者が出てくる、城寨が見える』の登場人物の台詞は、おびただしい命令形に満ちています。「医者を呼べ」「急げ」「ここで降ろしてくれ」「お前がやれよ」「洋服を着なさい」「デザートを食べちゃいなさい」「いいから、乗るのよ!」etc。これはコミュニケーションではありません。しかし、一方が一方の隷属状態に置かれているわけでもなく、その立場はあくまで不安定に相対的です。そして、驚くべきことに、荒涼とした殺人劇とチェイスの連鎖の中に、誰にも止めることができない、誰の感情でも所有物でもない、匿名の、不思議な抒情が漂ってくるのです。
『愚者が出てくる、城寨が見える』がどんどん売れて、先にあげた学研の3冊(入手困難)の「復刊」を、さらに、早川書房から出ていた『危険なささやき』や『地下組織ナーダ』(これまたなんとソソるタイトル!)まで、続々と「復刊」されることを願ってやみません。