『オーウェル評論集 1 象を撃つ』には、10のエッセイあるいは批評(その境界は良い意味で曖昧です)と、短い19のコラムが収録されています。子供時代をノスタルジックかつ皮肉をこめて綴った「あの楽しかりし日々」がやや長い(89ページ)のを除いて、どれも40ページにも満たない、短くて、けれど濃厚で、ディーセント(decent)な散文の玉手箱のような本です。「ディーセント」(上品な、上質な)という言葉は、この本のカバーからの受け売りですが、そのカバーも、もしかしたら大江健三郎氏からの影響かもしれません。およそ日本の作家で、大江氏ほど「ディーセント」という言葉に特別の思い入れを込め、頻繁に、繰り返し用いてきた作家は他にいないからです。むろん大江氏は、「ディーセントなオーウェル」を、最大級に評価していることは言うまでもありません。
いま、図らずも「散文」という言葉が、二つの文脈で出てきました。一つはオーウェルが、「自分の名前は散文的だ」という時の「散文」。これは、「詩」的なスペイン人たちの名前と比べての、「散文」性でしょう。もう一つは、オーウェル自身がつむぎだした、ディーセントな贈りものとしての「散文」です。詩的な名前を持った男たちと一緒に戦った、散文的な名前を持った異邦人による、散文。
【しかし同時に、自分のパーソナリティを消し去る努力を続けないかぎり、読むにたえる何物も書きえないということもまた本当なのである。よい散文は、窓ガラスのようなものだ。】
「なぜ私は書くか」の終盤部分です。消し去る→透明になる→ガラス という類推が働きます。そして見落としてならないのは、単にガラスであるだけでなく、「窓ガラス」であるということ。ここには、「よい散文」を通して、読者が何を見るのか、ということについての、作家からの回答が書き込まれているように思います。自分の家からでも、風景=世界を見せなければいけない。色眼鏡抜きで、よく磨かれた窓ガラスの言葉で、それを。
が、しかしオーウェルがおもしろいのは、もっと先があることです。先というか、幅というか。先の引用は「しかし」で始めました。「しかし」の前でどんなことをオーウェルが書いているかといえば、「作家というのはいったいなぜ書くのか」といったことを述べているわけです。オーウェルは「四つの大きな動機」として「純粋のエゴイズム」「美的情熱」「歴史的衝動」「政治的目的」を挙げています。いちばん最初に「純粋のエゴイズム」を持ってくるところがミソです。「純粋のエゴイズム」とは、「賢い人だと思われたい、人の話題になりたい、死んでからも覚えておいてもらいたい」といった欲望のことです。そうした欲望がぜんぜん無いところで「書きたい」だなんて、そんなの嘘っぱちだよとオーウェエルは言います。
さらにオーウェルという作家に深い陰影と知性を賦与しているのが、「政治」についての態度です。いうまでもなくオーウェルは政治にも深く係わった人ですが、自ら政治家だったことは一度もありません。オーウェルの散文は、政治的なプロパガンダとはまったく一線を画している。と、そんなふうに書いたとたん、「ちょっと待った」の声がかかります。いったいどこからその声はやってくるのか? 他でもない、ジョージ・オーウェルその人の声が「待った」をかけるのです。先に引用した「窓ガラス」のくだりは、こう続きます。
【私は、私の動機がいろいろあるなかで、どれがいちばん強いかはっきりと言えない。しかし、どの動機が、それに従う値打ちのあるものかを知っている。そして私の仕事を振り返ってみて、自分が政治的目的を持っていないときにかぎって、生命のない本を書いたこと、そういうときにかぎって、名調子のところ、意味のない文、飾りになるだけの形容詞、それからまやかし一般に迷い込んだということがわかる。】
今回、『オーウェル評論集 1 象を撃つ』を読んでいて、あえてそういう言い方をすれば、ここがオーウェルの真骨頂だと思いました。これまで筆者は、政治に深くコミットしながら、政治から自立した文学を説いた文章には何度かお目にかかっています。ここに書かれているのはそれとは真逆のことです。しばしば、「自らの政治性を意識する」とか「政治的でないものなんかない」(森達也さんふうに言うなら「朝ごはんだって政治だ」という感じ?)とかいう言い方をしますが、どうもここで言う「政治」は、そういう思考のタームとしての「政治」より、もっとダイレクトな匂いがします。オーウェルのいう「政治」は、やっぱり現実を動かすものとしての「政治」のようです。
警官としてビルマで5年を過ごし、パリとロンドンで自ら貧民となって貧民たちの生態を描き、スペイン人民とともに戦い、戦地や病院などの底辺を経験したジョージ・オーウェルは、常に実践の人でもありました。オーウェルは「現実が見えていない」左翼や作家をしばしば厳しく批判しましたが、同時に自らのハードな体験ばかりを頼みとするような、武勇伝的な態度からは最も遠い知性の持ち主であったと思います。
作家って、そもそも何をする人だっけ? オーウェルを読んでいると、しばしばそんな思いに囚われます。審美主義的な態度はまったく無いのに、その手のどんな作家よりも美しい瞬間を散文で切り取ることができるのもオーウェルなのです。
考えること、経験すること、愛すること、感じること、生きること。そのすべてが、ジョージ・オーウェルの散文には詰まっています。
『オーウェル評論集』は全四巻。初めてオーウェルを読むなら、「経験」をテーマに編まれた第1巻「象を撃つ」をオススメします。
ジョージ・オーウェルによる二十世紀世界文学の最高傑作『一九八四年 新訳版』の書評も収めていますので、ぜひお楽しみください。
『一九八四年 新訳版』 レビュワー/堀和世 書評を読む