他方、ゴーギャンは「未開の島」の娘たちを楽園の表象として描きます、ただしその絵は、ヨーロッパ人の美意識を逆撫でするものであるに違いありません。むろんかれ自身、それを承知し、それどころかかれはかれの絵画でヨーロッパの美の規範の挑発さえもくろんでいます。かれの戦いはどんな展開を迎えるでしょうか? 楽園でのかれのセックスと絵画制作の蜜月はいつしか、貧困と梅毒に蝕まれてゆきます。
この物語はどこへ進んで行くでしょう? フローラ・トリスタンと、ポール・ゴーギャンは(祖母と孫の関係、ただし)別の時代の別の場所に生きました。しかし、著者バルガス=リョサは、その異なった時空を生きたふたりの人生を、交互に描く構成によって、ふたりの夢を、情熱を、葛藤を、フーガに仕立てあげてゆきます。
では、社会主義のヴィジョンの具現化のために戦うフローラ・トリスタンと、南国の娘たちの「楽園のイメージ」を描くポール・ゴーギャンの人生に、いったいどんな関係がありえるでしょう?
もっと幸福な労働が成り立つ社会を求めること。もっと幸福な家族のあり方をデザインすること。性のよろこびと創造のよろこびを結びつけること。ヨーロッパ社会の抑圧を払いのけ、もうひとつの世界を夢見ること。
このふたりに加え、3人めにシャルル・フーリエを置くと、興味深い三角形が生まれます。フーリエは、欲望を肯定し、フリーセックスをふくむ独自の理想社会をイメージし提唱しました。ちなみにフローラ・トリスタンは、(その社会主義観のある部分をフーリエに影響されながらもフーリエとは対照的に)セックスを嫌悪していました。なぜなら、フローラ・トリスタンは、結婚に失敗。夫は無知でただひたすら暴力的な男で、彼女にとって夜のいとなみは屈辱的なものであり、妊娠はさらに嫌悪すべきものでした。にもかかわらず、当時の時代にあっては離婚することもままなりませんでした。
こうして見ると、フローラ・トリスタンと、ポール・ゴーギャン、そしてシャルル・フーリエという、3つの異なった自由の形が見えてきます。なんて凝った構成の小説であることでしょう。
あるいは、この小説のほんとうの主役は19世紀ヨーロッパ精神と言うこともできるでしょう。蒸気機関の発明が工場を作り出し、労働者という名の無産階級を生み出し、都市への人口集中と貧富の差を作り出していた時代。労働者は搾取され、家父長制のなかで女性は激しく抑圧されていた時代。一方で、資本主義と植民地主義が手を取り合って進み、他方で社会のあり方の変更を考える(サン・シモン、フーリエ、マルクスと続く)ヴィジョンも生まれた時代。そしてこの19世紀こそが、一方で印象派という市民社会絵画を生み、他方で小説という形式を完成させていった時代でした。