カミュとデュラスは同世代のフランス領植民地育ちである。カミュはフランス領アルジェリア生まれで 1913年 - 1960年 を生き、デュラスはフランス領インドシナ生まれで 1914年 - 1996年を生きた。いずれも貧しさのなかから学問を身につけ、作家になった。デュラスの母は娘時代の彼女に、フランス的な果実として林檎を食べさせようとしたけれど、彼女はマンゴーに愛着を持ち、母が肉を食べさせようとしても、むしろニョクマムで味つけられた淡水魚を好み、同様にパンよりは米を好み、メコン河の行商人の野菜スープを好んだ(エッセイ集『アウトサイド』晶文社刊)。それであってなお、『ヒロシマ、わたしの恋人』から『愛人 ラマン』に至る作品の系列を読めば、アジア人とセックスすることが、ほとんどトラウマのような体験としてあり続けていることがわかる。あるいは、この親和と嫌悪の共存こそが、植民地で生きた宗主国の人間の感受性なのかもしれない。では、カミュはどうだろう? いや、その問いはあまりにたんじゅんすぎる。むしろこのような問いを括弧にくくり、(ただしけっして忘却せず)、カミュの『異邦人(L'Etranger)』を精読してゆくこと。
カミュの『異邦人』は宗主国の、いくらか変わり者で、良くいえばクール、悪くいえば空気の読めない、痛ましいまでに正直な男の話である。
かれは、悪い友達絡みのなりゆきで、自分に向けてナイフをふりあげたアラブ人を、射殺してしまう。かれにはあらかじめの殺人の意思はなく、かれはつい、なりゆきで、善/悪のさかいめを踏み越えてしまう。そしてかれは裁判にかけられる。裁判の過程で、かれは(正当防衛とはいえ、あらかじめの殺意はなかったとはいえ)けっして反省のそぶりを見せず、したがって司法はそのかれの言動から、かれを、更正不可能な、まさしく殺人者らしい人格とし解釈してゆく、そして司直はかれに死刑を宣告する。物語の最後の瞬間に、主人公はむしろ世界の無理解を歓迎してさえいる。これはいったいなんについての物語なのか? いや、もう少していねいに、順を追って話そう。
物語はこんなふうにはじまる。
…きょうママが死んだ。もしかするときのうかも知れないけど、おれにはわからない。老人ホームから電報をもらった。「お母様がご逝去になりました、心からお悔やみ申しあげます。なお、埋葬は明日。」これではなんにもわからない。きっときのうだったのだろう。…主人公の名前はムルソー。葬儀に駆けつけたかれは、棺のなかの母の顔を見ることをうながされたが、しかしかれはそれを断った。理由を問われたかれは答えた、べつに理由はありません。夕方の光に照らされた部屋で、かれは眠気に襲われた。
翌日は葬儀。かれはふつうに葬儀に参加した。母が、老人ホームの仲間たちから「フィアンセ」と囃されていたというペレーズ氏を紹介される。かれはペレーズ氏を見る、だらしのない身なり、白髪、黒い斑点がいっぱいの鼻の下で震える唇、青白い顔のなかで血のように赤い耳を。かれは母親の正確な年齢を知らなかった。葬儀が終り、アルジェへ戻ったとき、かれは開放感を感じ、きょうは十二時間眠ろうと考えた。
土曜日、ムルソーは髭を剃りながら、せっかくの休日であることに気づき、泳ぎに行くことにした。かれは海辺で会社の元同僚でタイピストのマリイに再会する。日のあるあいだは海で泳ぎ、夜になったら、マリイと映画へ行った。いつのまにかすっかりいい仲になって、その夜かれは、マリイと一夜を過ごした。そしてふたたび日常に復帰したムルソーは、会社で船荷証券の書類の点検をし、アパートの隣人と話を交わし、日々を過ごす。かれの隣人は、毛の抜けた犬を飼ってる年金暮らしのしょぼくれたじいさんサラマノ。ボクサーみたいな鼻をしたジゴロのレエモン。かれは隣人たちと気さくにつきあうが、ただしどこか距離のあるつきあい方ではある。レエモンは悪党で、女を転がして、喰っている。レエモンは、情婦に復讐するために手紙を書きたいと言い、ムルソーに代筆を頼む。ムルソーは断る理由もないので、引き受ける。ムルソーは、名前を聞き、レエモンの情婦が現地系の混血であることを知る。