どこでもいい、任意の文章を一つ、こうしてコピー&ペーストしてみるといい。
「そう、パリに戻ったぼくは、その岸の、ぽつんと植わった菩提樹の蔭に立って、夜の河面を見つめながら、今ごろ、海に捨てたカメラは、水深四十メートルの地点で錆びつつあるところだろうなと考え、きっとドーバー海峡のどこかで、暗く濁った水に取り巻かれ、泥土に埋もれて軽く傾いた状態のまま、ボディの蓋に細い海草などを巻きつけているのだろうなと想像した。」
本書「カメラ」の終盤に差し掛かったあたりで挟まれるこんな一文にさえ、ジャン=フィリップ・トゥーサンらしい世界がさりげなく滑り込ませてあり、独特なナラティブの味わいに思わず頬が弛む。
前二作「浴室」「ムッシュー」(ともに集英社文庫)を読んだ方ならお気づきの通り、トゥーサンの散文がこうしたスタイルへと変化したのは、本作「カメラ」からで、外面的特徴で見てもその違いは明らかだろう。前二作は、一文一文もまだ短く、その断章もかなり細切れで、どこか肌理が粗いように感じられたものだが、一転「カメラ」では絶え間なく静かに流れるエクリチュール、強靭な描写への執念が見て取れる文体へと変貌を遂げ、読者を驚かせたのである。
この少し息の長い一文の中に呑み込まれた、思考の流れをそのまま写し取ろうとするような描写、文節の隙間から滲む彼独特のとぼけた味わい、巧みな時間・空間の移動といった散文技術の達成は驚くべきレベルにある。
この流れるような「エクリチュールの誘惑」こそ、「カメラ」の最大の魅力であり、読みのモチィベーションをつくり出している。ここには大きな物語があるわけでなく、行き当たりばったり動き回る主人公「ぼく」の行動と些細な出来事を精緻な描写で追ってゆくのみで、改行さえも拒否/忘却されたまま数行に及ぶ長文が続くにも拘らず読みにくくはないし、そればかりか面白くさえあるのだから、この小説の質の高さがわかろうというものだ。
いかにのらりくらりと話が進むか、エピソードの順にその流れをまとめてみると、こんな感じになる。
《「ぼく」はある日思い立って、自動車教習所へとやって来る。受付の女性は後のガールフレンド、パスカル。書類の不備で、結局入校できないものの懲りずに足しげく通っては、入校の手続きにやって来た青年を追い返したり、パスカルの息子を迎えにいったりして時間を過ごす。その翌日にはミラノへ行き、足にたこをつくって、ふたたびパリへと戻ってくると、教習所へと直行し、パスカルとともにガスボンベを交換に行き、その先で「ぼく」は狭いトイレに閉じこもり物思いにふけったりする。
ふたたび、教習所に戻るとパスカルの父が来ていて、彼の車でまたガスボンベを探しに出かけるが、今度は車が故障し、結局駅まで歩くはめに。翌日はパスカルとロンドンへ。人だかりのできた公園を横切り、インド料理店へ行き、翌早朝にはパリに戻り、彼女の父に預けた息子のピエールを引き取ると、学校へと送り届ける。
結局、パスカルとロンドンにいたのは一晩。深夜フェリーに乗った「ぼく」は寝つけずに船内を歩き回り、テレビゲームに夢中の男の後ろでその様子を眺めたり、レストランで中年のパンクカップルに混じってサンセールを飲んでいるうちに、座席のくぼみに挟まった忘れ物のカメラに気づく。「ぼく」はそれをポケットに入れ、急いで階段を駆け上がりフィルムを使い切ってしまおうとでたらめにシャッターを切って、そのカートリッジをポケットに入れると、カメラを海に落とす。
数日後,写真のプリントを受け取ると、そこに写っているのは男と女で、船のレストランで置き忘れる直前に撮られたものらしい。「ぼく」の撮った写真は一枚も現像されてはいない。
知人宅の帰り、「ぼく」は道に迷いながら夜の田園をさまよう。終電にも乗り遅れ、電話をすればパスカルは眠りこんでしまう。電話ボックスの中で夜を明かすうちに陽が昇り、こんな啓示に打たれる。「薄れゆく恩寵を今一度捉えようとした―ちょうど、針の先端を、生きた蝶の体に突き刺すようにして。」こう思う。「生きている。」》