お話はかくの如く、「ぼく」ののらりくらりとした行動を精緻に描写していくのだが、そこにトゥーサンの企みがあるらしいことはどことなく伝わってくる。どうやらトゥーサンは、お話が結末へと一方向に流れてゆくのを押し留めたいらしく、時間・空間を入れ子状に複雑に織り上げ、現在に過去を、こちらにあちらを自在に環流させながら、お話が単調に陥ってしまうのを防ごうとしているのかもしれない。引用符(「」)や改行の拒否ないし忘却、それに少々息の長い文章も、いたずらに採用されているわけではなく、独特の流れとリズムを生み出すという効果に加え、読みを遅延させることで、何が書かれているかではなく、どう書かれてあるかを読み取ってほしいという要求を突きつけているのではないか。つまり、一見のらりくらりとしているように見える行動/文章はこの現実に対抗するための「ぼく」/トゥーサンのアプローチ法だといえなくもない。
「ぼくのアプローチ法は、(略)行く手を塞ぐ現実をくたびれさせることにあり、それはちょうどオリーブの実を相手にするとき、オリーブをまずくたびれさせてしまうと、フォークで刺しやすくなる」
「ときどきそっとフォークで押しつけてやっているうちに、オリーブの実がぐんなりなってしまうようなものなのだけれど、こうして現実のほうがへばってしまい,なんの抵抗も示さなくなったあかつきには、ぼくのこの、ずっと以前から身のうちに感じていた憤怒が勢いに乗じて迸り出るのを、何物ももう止めることはできないのだ」
こうして、のらりくらりと「現実」に応戦しながらも、「ぼく」は「憤怒」の種子を宿していく。オリーブの実をぐんなりさせるように現実をくたびれさせようとする努力も「現実」を前にして「ぼく」の抵抗の虚しさを明かしているようにも読める。それにしても「憤怒」という言葉、なんとも不気味で効果的ではないか。とはいえ、このささやかな小説に意味やメッセージを期待してはいけない。トゥーサンが私淑したサミュエル・ベケットがナンセンスによって、19世紀的小説に決別しようとしたように、彼もまた意味やメッセージには寄りかかろうとはしていないのだから。
こうした思弁を含め、説明を極力排した描写、場面転換、時間・空間の処理、長いセンテンスの書法のどれを取っても、「カメラ」には小説技法の見本帳的な色合いがある。なかでも、船のレストランに置き忘れられていたカメラをねこばばする場面は、穏やかな流れを持った「カメラ」にあって、読者を不意に宙吊りにするサスペンスに溢れ、スリリングな興奮を読者に与えずにはおかない。「ぼく」はさっとあたりに眼を走らせ,ポケットにカメラを落とすと、船の階段を急いで駆け上り、でたらめにシャッターを切ってフィルムを使い切ると、カートリッジを取り出し、カメラを海に棄てる。その間のひりひりとした緊張感は上質なミステリのワンシーンにも引けをとらない。そう、「カメラ」は現代文学における技術的な問題へのトゥーサンらしい回答のひとつと見なすこともできるだろう。
とはいえ、我々はただひたすら流れるエクリチュールに身をまかせる以外に、この小説を味わう手だてがない。物語にも、メッセージにも依存することなく、小説世界を構築したトゥーサン。「カメラ」はその腕力に触れる入門書としても最適である。
それにしても、野崎歓氏の翻訳の凄いこと! 氏の手腕がなければ、トゥーサンの面白さは十分に伝わらなかったに違いない。野崎氏にはただ感謝するのみである。