愛の消失点に向けて、トゥーサンは物語を進めるかに見せかけて、バニシング・ポイントはついに現れることがない。マトリョーシュカのように、現在と過去が相互に入れ子状に潜り込み、空間は変転しながら、あたかも螺旋の迷路を行くように、ふたたび元の時間・場所へとわずかなズレを生じさせながら戻るという堂々巡りが繰り返される。それは読者にかすかな目眩を起こさずにはおかない。映像手法でいうカットバック/クロスカッティングも多用され、物語はたびたび立ち止まり、そこに留まろうとする。
つまりこれはなにを意味するのか?「これが最後だからと言っていったい何度セックスをしたことだろう?」冒頭近くで語られるこの独白に、あらかじめ答えが書かれてある。マリーとの別れを決意しながらも「ぼく」は「最後」を遅延させ続け、すべてを曖昧にしたままで元へと戻ろうとする男の、心の揺れがトゥーサンお得意の入れ子状の構成と相まって、酩酊感を伴った見事なエクリチュールを造形している。
「ぼく」の名前や年齢も明かされず、引用符(つまり「 」)、改行さえ拒否/忘却された息の長いセンテンスは、トゥーサンのいつものスタイルだし、外面的にはなにも変わった印象はないのに、やはりこの小説で彼は大きく変貌を遂げたように思える。トゥーサン自身が明言しているように、これまで封印してきた心理描写を取り入れたことも、その要因だろうけれど、なによりフィクション(物語)とナラティブ(語り)のマリアージュが素晴らしく、一度読んでしまうと、この物語をこの語りで書く以外,どのような書き方があるのか、想像すらできなくなる。一見、冗漫と受け取られがちな息の長い文章さえ、実はぎりぎりまで刈り込まれた結果の長さで、一言半句ほどの無駄な言葉も挟まれず、徹底的に推敲された(に違いない)エクリチュールは時に自在に速度を変えながら淀みなく流れる。外面描写は外面描写で終わらず、その内に心理描写を宿し、心理描写は心理を超えたなにかへと拡張してゆく。
匕首のように忍ばせている塩酸の小瓶、二人の到着とともにしずしずと揺れるシャンデリア、闇に沈むプールの向こうに浮かび上がる新宿の夜景、雪の降りしきる新宿の街角を粗末な姿で歩き過ぎる巡礼者のごとき男女…そうした一切のものが愛の行方を予感させるメタファーとなり、読者を宙吊りにしたまま結末へと運んでいく。
そのすべてはトゥーサンの散文技術の達成だとはいえ、これほどまでに美しい言葉によって書かれた小説をわたしはほかに知らない。
それは夜のしじまに低く流れるバッハのオルガン曲のように、読後も消えることなくそのロングトーンは響き続ける。深いメランコリーをたたえて。