『チャパーエフと空虚 』は、ソヴィエト連邦が崩壊して五年目の、1996年、著者三十四歳のときの作品である。なんとも途方もない小説である。好き嫌いが大きくわかれるだろう、なぜって主人公の性格があいまいではっきりした性格づけがなされていないから読者はかれに感情移入しにくく、また叙述はふたつの時間を往還する。しかもふたつの物語は並行して進みながら、物語は、主人公の治癒と退院をもってエピローグを迎えるものの、ふたつに分岐しながら進んできた物語は、最後にいたってなお統合を与えられはしない。いや、結末のつけかたに限らず、そもそもこの小説は、読者が読んで、頭のなかで、読者自身の手でなかば構成をしあげるように、どこか読者を信頼し、最後の仕上げを読者にゆだねているような書き方がなされている。けっして著者は文章を中途半端に放り出しているわけではない、それどころか文章は入念にしあげられている、構成も入念で、ぬかりはない。
それであってなお著者は、物語をあえて読みやすい完成形で示さず、読者が自身の頭のなかで構成したとき、完璧な構成にいたる、そんなゲームとして、この作品を提示しているようなふしがある。読者の知性に対する期待がひじょうに高い書き方である。したがってこの作品は、一方でロシアの二十世紀末のポップ・ポストモダニズム・ノヴェルとして大量消費されながら、同時に、味にうるさい世界中の現代文学グルメたちからも、大いに論評の対象になってもきた。それだけ多くの批評を引き出す力がこの作品にはある。
統合失調症患者の見る夢のような話でね、ソヴィエト連邦の黎明期と、ペレストロイカ以降の現代という分裂したふたつの非和解的な世界に、むりやり連続性を見出そうとして、それどころかなろうことならば統合を夢見さえする物語だ。そう、この物語は、引き裂かれ、分裂したふたつの世界を、色即是空の仏教哲学でつなごうとする。ひらたくいえば、形あるもの(物質世界)は、すべて空(void)であるという考えであり、現実はどれだけ猫の目のように変わろうとも、そもそも現実そのものがヴァーチュアルリアリティと同じなのである、という思想である。
タイトルにあるチャパーエフとは、ロシア革命後の国内戦で勇名を馳せた伝説の軍人のこと。実態を離れた調子のいい評伝が書かれ、国民を感動させる映画が作られて映画の黎明期に爆発的にヒットしたため、全ソヴィエト的ヒーローになった、もはや実在の人物やら虚構の人物やら見分けがつかないような存在らしい。他方、「空虚」というのは、この小説の主人公の名前、ピョートル・プストタの、プストタのこと。(ちなみに英訳版では、主人公の名前を、Pyotr Void と訳している。)"void"、そこになにものをも容れることができる空っぽの空間。空虚。無効。ま、「からっぽジョニー」みたいな名前の、主人公だ。そしてこの主人公のからっぽが、一方でロシア革命の一年後、伝説のスーパー軍人チャパーエフの従者としてソヴィエト連邦黎明期の内戦に参戦もすれば、他方で現代のソヴィエト連邦崩壊後のロシアで精神病院に入れられていて、かれはふたつの時空を行き来する。