表祐筆役(政府高官といっていいと思う)を父に持つ子供、が「名馬」なのだ。この子供が、町火消し「は組」の頭が火事場で指図している姿を見て、ああなりたい、と決意する。
弱虫で泣き虫、夜一人で厠に行けず、剣道では全敗していて負けるたびに泣いてしまう自分をどうにか変えていきたい、「男になる」にはあの頭に教えを乞うしかない、と一人で判断して「は組」を訪ねていく。
「おいおい、寝小便はやまない、女の子にも竹刀で打ちのめされるような子を、男にするったって、どうすりゃいんだい」と思う頭ではあるが、よーがす、引き受けやしょう、しばらくこの家に顔を出しなさい。ということになる。
かわいらしく、正直で、真っ当な人間で、言葉遣いがきちんとした武家の坊ちゃんを、火消しの重鎮である「は組の頭」や周辺の者たちが応援し、一人前の大人にしていくといった物語。これが「ほろり」とさせようと企んでいる様子がないまま、ほろりとさせるのが「手練れ」ですよ。
読んでいると、この小説はその「名馬」の成長物語ではあるけれど、書きたかったのは火消しの一家の日常なんだなと思う。ずいぶん調べて書いた感じがする。それはなにも「文献そのまま」という意味ではなく、読んで楽しい火消しの知識、といった内容が随所に見られるということ。火を消すというより、延焼を阻止するというありよう、水を含ませた刺し子を来て駆け回る火消しの姿、ポンプのように思われがちだが消火にはほとんど役に立たない龍吐水なども描かれている。
頭には娘しかいないので、後継ぎを組の若い者の中から決めなければいけないという話。他の組との火事場での争い。また、火事場で「心意気」を見せようとすることが「意地の張り合い」になっていきがちな世界。そして、主人公の坊ちゃんの母親が過度な期待をかけることで少年が萎縮してしまいがちになるという「今も同じような」教育観。さらに、職が無くなるのは困るが特別出世はしなくても父が勤めている役を同じように果たせればいいという「無事な生活」のありよう。対照的に、非常に優秀な他家の少年の行く末なども垣間見える。
こうしたことを織り交ぜて、頭が年をとっていき、周りの大人が複雑な人生模様を見せ、坊ちゃんは普通に良い侍に育っていくという物語。
こういう風に「市井の人々の日常」といってしまえる内容を、面白く書く、読み出したら次のページが楽しみ、今日はここで止めようができない、といった塩梅に書くのは先にも書いたが「手練れ」です。
「殺伐」がない。「いくら何でもこれはないでしょう」という時代小説の破綻がない。猛烈な「ハラハラドキドキ」もない。しかし、面白い。ほっとする小説、それで退屈することはない。
「は組」にいて、頭や遊びに来る坊ちゃんを近い距離から見ていたいな、そんな気持ちにさせる。ほほえましく、しっかりした小説です。読書する喜びを満喫させてくれるのがこういう小説なんですよ。
先に書いた、男と女のあれこれがありつつ「颯爽」とした小説といえば、宇江佐さんの「髪結い伊三次」物の連作に(文春文庫)とどめを刺します。この作家は間違いなく「今この人を読まないでどうするの?」 の一人です。いや、ほんとだって。