むろん「ぼく」は反対する、そんなことできるわけないだろう、そもそもそれは犯罪だよ。しかし珠子さんは反論する、なにを言うの、犬を虐待しているほうが立派な犯罪、わたしは救助しようとしているだけ、責任を取ろうとしているの。珠子さんは断固言い張る、不動産屋に鍵を開けてもらうでもいい、鍵屋を呼ぶでもいい、どんな手を使っても、わたしは犬を救い出します。「ぼく」は困ったことになったなぁ、とおもいながらも、どうせ成功はしないだろう、と、たかをくくることで自分自身を安心させようとする。
しかしなんと「ぼく」がその日、家へ帰るとなんと家に犬はいたのだ。そう、珠子さんは犬を盗み出すことにやすやすと成功した、(家主の不在中、窓が少し開いていたそうな、そこで珠子さんは犬をかんたんに呼び出すことができたそうな)。「ぼく」はその目の前の犬を呆然と見ながら、現実と自分が乖離するような感覚に見まわれる。それからというもの「ぼく」と珠子さんは犬と一緒に暮らしはじめるのだが、しかしその後も「ぼく」に例の、虚ろな感覚は消えることがない。
そんなある日、犬が姿を消してしまう。珠子さんは泣きじゃくり、とり乱す。「ぼく」の心のなかに、ある言葉がふつふつととめどなくあふれてきて、戸惑う。そう、「あふれてくるのは、ざまあみろ、という一言だった。ざまあみろ。ざまあみろ。思うそばからうち消した。なんでそんなことを思うんだ。珠子はただよかれと思ったことをしただけだ。ざまあみろ。ざまあみろ。だからそんなこと思うなって。この人は大事な人だろう。憎む相手じゃないだろう。ざまあみろ。いや、ちがう。そんなこと思ってない。ざまあみろなんて思ってない。いや思ってる。ざまあみろ。そう思ってる。あはは、ざまあみろ。泣く珠子の背をさすりながら、ぼくは心のなかでひそやかに執拗に自分自身と言い合いを続けた。」なんとも暗いクライマックスである。愛と憎しみの葛藤が見事に描きだされる、しかも口に出されることなく、内面の言葉として、激しく。
そしてふたたび犬のいない暮らしがはじまるのだが、しかし犬が消えてからもなお、「ぼく」の心のなかに、あいかわらず現実と自分が乖離するような感覚は消えない。小説のエンディングで「ぼく」はこんな心情を吐露する、「だれかとともに暮らすということは、恋人が遮二無二よその犬を盗みにいくのを見るような、そんな不気味なことなのかもしれなくて、けれどぼくらはその不気味さを生活になじませていく。不気味さがそこにあるのを忘れるために、洗濯機をまわし食器を洗い、スーパーマーケットに向かい、明日の目覚ましをセットする。テレビを見て笑い、どうでもいいことでちいさな喧嘩と仲なおりをくり返す。」なんと切々とした言葉だろう、あきらめとも赦しともつかない、なんとも実感のこもった言葉だ。
「ぼくらはきっと、別れることなくこのままいっしょに暮らし続け、なんとなく結婚しおだやかに静かに年をとっていくのではないだろうか。その平和な時間のなかで、ぼくはあの犬のことをふと思い出すだろう。それまで人には向けなかった執着を持って犬を奪還しにいった珠子と、彼女の背を撫でさすりながらざまあみろとくり返していた自分とを、日常の隙間に幾度も幾度も。」
そしてこの作品『犬』は、静かに幕を閉じる。