愛すべき「粘菌」、あとの世代に成果を繋ぐ「遺体科学」について、触れないわけにはいかない。
まず、竹内郁夫・京都大学名誉教授が案内してくださる「粘菌ちゃん」。だって実に人間的なんですよ、粘菌は。土の中にいる粘菌の、自分たちの子孫を残すための犠牲に満ちた行動がすごいのです。
以下はその一連の行動。周りに粘菌の食物であるバクテリアがいる時はいいが、それがいなくなると死んでしまうので、その前に命を後に繋がなくてはならん、というわけで、1人の粘菌が「集合」をかけるわけです。すると伝言ゲームで10万個くらいの粘菌細胞たちだがどんどん集まってきて、1~2mmのナメクジみたいな集合体になる。このナメクジは一族の未来を託す胞子にとって快適な、乾燥した環境のところへ移動。よし、場所はここで決まり、となったら、ナメクジは、地面に接しているところにいる粘菌が基盤となって、地面に固定される。基盤となるということは、死ぬということ。これが子孫への犠牲の第一。
さあ、固定したぞ、と。次いで、粘菌たちはおたまじゃくしが立ち上がったような高さ2~3mmの姿に変化する。おたまじゃくしの、もっと下が長い感じ。アタマは胞子になり、あとはハシゴ役。このハシゴが子孫への犠牲の第二。やがてハシゴを残した胞子が、ミミズなどにくっついて移動して、いい環境のところで発芽する、というわけ。
このままじゃ、飢え死にだっ、ていう段階から、集合・胞子誕生までは、なんとわずか1日。この迷いなきチームワークの良さ。そして、自己犠牲の精神。人間的と書きましたが、人間じゃあ、とてもこんなにうまくはいかないでしょう。まず、人間同士の争いになるに決まっている。子孫のためなら、自分が犠牲になるのは全然オッケーというこの崇高なる生きもの、「粘菌ちゃん」。考えてみると、種としての自己犠牲精神をもっとも持ち合わせていないのって、人間種だな。
「遺体科学」。この言葉というか分野、初めて知りました。
その主旨を表す以下の言葉に驚かない人はいないはずだ。
“遺体にひそむ謎を追い、遺体を人類の知のために保存する「遺体科学」”…なるほど。すごいのは次ね。…“私たちの仕事は、動物の遺体を無制限・無目的に収集することです” …ビックリしませんでしたか? 無制限しかも無目的! 犯罪なんじゃないのお。
東京大学総合研究博物館の遠藤秀紀教授は、きっとすごい人であるに違いない。無制限・無目的の主旨はこうだ。
「サイエンスには元々目的などなく、謎に対して好奇心で取り組んでいるだけなのだが、それは人が人であることのアイデンティティ。人類の知は、目的化された実行に対する答え、という形で出てくるものではなく、今、120年前の骨を眺められることにより、新しい発見が日々生まれている。そこに制限をかけて、未来の発見の可能性を摘むわけにはいかない。100年後、200年後に、我々が思いもよらなかった偉大な発見が生まれるかもしれないのだから、遺体の量の制限も取捨選択もしてはならないのだ」
さらに「自分の書いた論文などで、人類の知は変わらない。でも、無制限に集めた遺体を残しておけば、次の時代に可能性を引き継ぐことができる」
科学者って、自分の功績を貪欲に追求する人だけではないんですね。こんな謙虚な姿勢で次代、そして未来のことを考えている人がいたとは!
次のひと言で、さらに好きになりました。
「ともあれ、あんまり反政府的にも動けませんから、恥ずかしくない論文を書こう、というのもあるんですよ。そのあたりのバランス感覚で、今やってます」
…ね、いいでしょう。未来を見据えつつ、とりあえず目の前のこともちゃんとやっておこうという、この柔軟さ。遠藤教授のお話では、大きな生物の骨の標本はどうつくるのか、というくだりも面白い。これは本書を読んでください。
本書には、科学的な知識よりも、どうしても知りたいという実に人間的な動機を追求している人たちならではの、魅力的な発言がぎっしり詰まっている。もちろん、それを受けての小川さんの触発されぶりも楽しい。小川さんがノックする『科学の扉』は、実に人間的です。
この本、夏休みに中・高校生にも読んでもらいたいなあ。