モームは早くから作家を目指しながらも、その夢を隠し、医学校に学び、医師免許を取り、しかし早々と作家デビューに成功した。作品は、(オスカー・ワイルド全盛の十九世紀末に)、研修医時代に接したプロレタリアの患者たちをつうじて見知った世界を、リアリズムで描いたもの。モームが作家になれたことをよろこんだのもつかのま、入金された印税はおもいのほか少なく、職業作家に踏み切ったのはあきらかに早計だった。しばらくは貧乏暮らしがつづく。そんな日々にもモームはたとえばパリ、モンマルトルでも暮らし、ゴーギャンの伝説も知り、それが後日、『月と六ペンス』を生むことになる。だがそのまえにモームは「恋愛喜劇の劇作家として」名を成した。成功はモームをよろこばせはしたが、しかしモームには純文学作家としての夢も消し難く、また自分の困難に満ちた半生にもいろいろおもうところがあっただろう、『人間の絆』を書く。哀しげな自伝的小説が切々と語られた。すなわち、前期モームには、不安定きわまりない、作家としてのさまよいがあった。
モームが、第一次大戦中、スパイにスカウトされたのは、『月と六ペンス』の執筆に先立つ四年まえであり、この作品が、モームがスパイ活動をはじめた後に生まれた、第一作である。モーム四十五歳の作品であり、この作品でモームは、われわれが知るモームになった。この作品でモームは変わった。たとえば『月と六ペンス』を、前作の自伝的作品『人間の絆』との文体の違いに現われている。前作には暗さと内省があり、この作品には明るさがある、(主人公が破滅的であるにもかかわらず)作品には生の讃歌がある。モームになにが起こっただろう? おそらくモームはスパイになること、すなわち、〈公然と隠れて生きる〉ことをとおして、はじめて(それまでの逡巡を重ねた人生への迷いから解放され)、生のよろこびを味わったのではないだろうか。そう、モームは〈スパイになること〉をつうじて味わったに違いない、身を隠すことがもたらす解放感を。情報提供者を洗い出し、情報を収集し、統合し、ときに嘘を混ぜながら発信する、そんな一連の諜報活動がもたらす昏いよろこびを。そしてつねに危険とともにあることのなかではじめて得られる生の充実感を。しかもモームはゲイのパートナーとともに旅した、危険をともにする冒険小説さながらのスリル、そこから得られる死とすれそれであるがゆえの生の、性の、エクスタシーを。そしてそれらのすべてが『月と六ペンス』に、反映として、見出される。
それにしてもモームは、なぜここまでも複雑な人物になってしまっただろう。まず重要なことは、モームが英仏バイリンガルだったことだろう。そう、パリのイギリス大使館で生まれたモームは、ものごころついたときにはフランス語で考えもすれば、英語でも考え、言語の切り替えは瞬時におこなわれたようだ。ただし、かれの英語はおおいにフランス語に引っ張られたものであり、それゆえイギリスで過ごした十代のモームは、「へんな英語」をしゃべるがゆえに、(おまけにどもりであったため)、イギリスの同級生たちの揶揄の対象になったそうな。むろんモーム少年はおおいに傷ついた。つまりバイリンガルであることは、かれの十代までの人生においてはほとんどハンディキャップだったのだ。
ところが英仏バイリンガルであったことこそが、四十代のモームが、スパイにスカウトされる理由になる。それ以降モームは、三十年にわたって「人気作家であることをマスクに」スパイ活動をおこなった。なるほどイギリス政府にとって、モームは便利だったろう。なぜって、どこの国の人も、作家が好奇心旺盛であることあたりまえとおもうだろう、したがって多くの国の多くの人物は作家モームを受け入れ(不覚にも)警戒心を解きもすれば、この国際派作家をまえに無防備にもなっただろう。しかもモームは、すでに小説を書くことをつうじて、情報の圧縮、相互の情報間の関連づけに習熟していた。小説家は言葉のプロフェッショナルであり、ある種の情報処理技能に習熟しているのである。そう、知らず知らずのうちに小説家は学んでいる、言葉をどう使えば、現実がどう動くかについて。したがって小説家としての才は、スパイ活動に貢献しただろう。しかもモームはスパイ活動をつうじて、小説が情報処理であることに、自覚的になってゆく。だからこそ中期以降のモームは、フィクションとノンフィクションを連続性の相でとらえられるようになり、モームは、小説のなかで事実を操作するようになってゆく。もはや、モームにとって、小説家であることとスパイであることは、同じ精神の働きの違った現われにすぎない。