はなしをさらに錯綜させているのは、サイの死んだ父親が宇宙飛行士で「重力の支配から自由になる最初のインド人に」なるはずの人物だったこと。そう、インドの「戦後」には、ソヴィエトとの蜜月時代があり、当時インドはソヴィエトの宇宙開発に協力していたのだった。ちなみにサイの父親はゾロアスター教徒であり、かれはヒンドゥーの妻をめとり、そして娘サイをさずかったのだ。むろんそれはふたつの宗教をまたいだ、いかにもめずらしい結婚で、先々の困難が予感されたが、しかしふたりはともに「欧米型の進歩的教育を受けていたがゆえ」(!)、自分たちの結婚に、自由という名の高い価値を与えた。ふたりは仲の良い夫婦だったが、夫が「重力の支配から自由になる最初のインド人に」なる直前、偶然の事故で(夫婦そろって)死んでしまい、あとには娘のサイが孤児として残された。
そしてサイは元判事J.P.パテルの家に預けられる。パテルはずいぶん立派な植民地様式の豪邸に住む、典型的なイギリスかぶれのインド知識人である。もともとかれは、低いカースト(農民階級)出身であるにもかかわらず、知性にめぐまれ、まじめに勉強もして、オックスフォード英語辞典片手にイギリスに留学し、イギリス的教養と価値観に同化し、判事にまで登りつめた。
ただしかれの内面は憎しみが消えることがない、なぜならかれは多くの同胞インド人を無教養な愚か者として軽蔑しつつ、人生を生ききってしまったから。しかもかれには妻を追い出した過去がある、そう、かれはかつてかれの妻が、あるとき成した、ささやかな自由行動にえらく腹をたて、怒鳴り、殴り、二度と妻を許さなかった。そのマッチョな気質は(イギリス的教養とライフスタイルに身を寄せるかれの意識とは裏腹に)むかしながらの断固として男尊女卑なヒンデゥー男のメンタリティそのままである。けっきょくのところかれは、インド人からも、イギリス人からも、ほんとうの意味では相手にされない人生を生きてしまった、(そこは残酷なほどよく描かれている)。かれはいかにもインドの知識人の類型である。ラックスの石鹸、マリー・アンド・デリート・ビスケット、お酒にしても、グランマニエ、アモンティラード・シェリー、タリスカーに象徴される世界のなかで、かれは孤独のなかに幽閉されながら人生の暮れ方を生きている。ある意味で、元判事の不幸の要因は、きょくたんな階級上昇にこそあったのではないか、とさえおもえてしまう。パテルは人生の暮れ方にあって、ひねこびゆがんだ心を抱え、孤独に苦しんでいて、孫娘のサイだけがなぐさめである。なるほどサイはパテルのなぐさめたり得ただろう、なぜならサイもまたイギリス的な教養の世界で(いささか孤独を囲いながらも、それでも)のびやかに生きているから。
さて、その元判事につかえるヒンドゥーの料理人。どうやらかれはいわゆる洋食を作れるがゆえ、雇われているようだ。そう、もちろん元判事は、チャパティやサモサやプラオではなく、むしろスープや、仔羊のロースト、プディングのメニューがお気に入りである。とはいえ元判事が料理人に与える待遇は劣悪で、料理人は自分が誇りにおもえない家、それどころか自分を打ちのめし、がっかりさせ、バカにする家に仕え、屈辱に甘んじている。しかし同時にこの料理人は、ひどい扱いに耐えるひたすらいじらしい使用人であるかに見えながら、実は、主の目を盗んで密造酒をこしらえ売りさばき、ちゃっかりカネをこしらえる、したたかな男でもある。かれはそうやってカネをこしらえることができたからこそ、息子のビジュをアメリカへ(!)働きに出すことができた。かれのプライドは、自分の息子が「アメリカ人のために」料理を誇り高くつくっていることなのである。