しかし、料理人が息子を誇りにするのとは裏腹に、とうのビジュはアメリカにワーキング・ヴィザなしでわたったがゆえ、つねに劣悪な労働環境のなかで働きつづけ、つねに「犯罪者のように」逃げまどう、不遇な人生を送っている。なるほどニューヨークのレストランの厨房は、さながら植民地である。ヴィザなし労働者は、自動的に安くコキつかわれる境遇に甘んじるほかない。しかもいつしかビジュは、自分をこんな地獄のような場所へ送り込んだ父を憎みさえする、しかし冷静に考えるならば、もしもアメリカへ渡ることができなかったならば、それはまたそれでそのことを憎んでいただろうこともまた疑い得ないと、かれ自身わかっている。すでにこの料理人と息子ビジュの親子関係は、形式的なものになり果て、生きた愛情の内実を失いはじめている。
ただしそこにはどこかユーモアがある。たとえば料理人は、自分を動揺させるなにか衝撃的なことが起こるたびにヒンディで叫ぶ、ハマーラー・キャー・ホーガー、ハーイハーイ。(わしらはいったいどうなっちまうだよ。あああぁ。)ヒンディ語話者がどうおもうかは知らねども、英語話者や日本語話者は、この呪文の如き叫びに、(失礼ながら)まのぬけたユーモアを感じる。むろんキラン・デサイはそのことに自覚的であり、こういうところに才女キラン・デサイの批評性と詩才が輝いている。そして物語は、きわめて高い緊張感をともないながら、1986年の、ゴルカ人の民族解放ゲリラが引き起こした民族間闘争の激化になだれ込んでゆく。そしてそれはまさに、いま、猛烈な勢いでグローバライズされてゆくこの世界が、自動的にさまざまな紛争を引き起こしていることの象徴なのである。
おもえばこの作品『喪失の響き』は、原題"The Inheritance of Loss" であり、直訳すれば「損失の相続」である。なるほど、このちぐはぐで、クレイジーで、メッシーで、母国の文化に異文化を接木されたような、アップサイドダウンな、そしていたるところに剥きだしの差別が息づいている、この世界が、これでもかというくらいに徹底的に描かれていて。小説の記述じたいも、まさにそれに見合った、ときにノイジーでけたたましく、そしてまたときに優美な文体が巧みにつかいわけられている、(それでいてふしぎと詩を感じさせる散文でもあるところがすごいのだけれど)。
ちなみに冒頭にボルヘスの詩が掲げられている、英訳では Boast of Quientness であり、訳者は『慎ましさを誇って』という訳を宛てている、ただし、それにつづくこの小説全体のトーンを意識するならば、『声なき民の誇り』くらいが適切ではないかしら。むろんアカデミックな言い方に直せばその意味するところは、サバルタンとしての誇り、だろう。
たとえば作中には、謎めいた呪文のような言葉がとうとつに、そしてひんぱんに混じる、(実はそれらはどうやらヒンディ語らしきものであるらしい)、ただしそれらの謎めいたフレーズには原著に註もなく、訳書もまた同じ姿勢を貫いている。
したがっておれはこの書評を書くにあたって、ヒンディ文学研究者の小松久恵さんにたくさん質問し、たくさんの教えを乞うた。(もしも彼女のていねいな導きがなかったならば、とうていおれは本書の書評を書くような蛮勇はふるえなかっただろう。その過程で知ったことには、どうやらこの訳書におけるヒンディ語らしきものの表記は、アルファベット表記をそのままローマ字読みしてカタカナに置き換えてあり、したがってこの訳書におけるヒンディ語らしきものの「音」の多くは、おそらく厳密さを欠いて表記されている可能性が高い。本書の勇敢かつ魅力ある翻訳のなかではささやかな瑕疵かもしれないが、いささか残念である。)ヒンディ語らしき言葉の意味の一部は訳語が宛てられているものもあるが、訳語のないものも多く、たいそう悩ましい。しかしながら訳文全体には美質も多く、まずこの作品にふさわしい訳文の文体を作ろうとする試みがあり、しかもやわらかでのびやかな訳文が実現してもいて、それをおもえば、この意図的に錯綜する語の水準で書かれた小説の日本語化に果敢に取り組んだこと、そしてそれなりの達成もまたわかる。