さて、そろそろ結びの言葉を書こう。
インドやアメリカにおける、声なき民としてのふつうのインド人の日常生活を物語に構成することは、果たしてヨーロッパ文学(とりわけイギリス文学)にいかなる影響を与えうるだろう。この作品は、その問いを実にシャープに打ち出している。それはまさに1980年以降、ラシュディ、クッツェー、ベン・オクリら以降の英語文学が切り拓いた世界において、さまざまに試みられ変奏されてしかるべきすぐれた問いである。しかもキラン・デサイはこの作品において雄弁に伝えている、クールでシックでポストモダンなグローバライズの夢の舞台裏は、ネズミやサソリがうごめく、差別と搾取と恐怖に満ちたこの世の果てで、もはやどこにも救いはないということを。ただし、そんな見解であるにもかかわらず、この作品には(それこそガートルート・スタインにつうじるような)どくとくのユーモアが一貫して流れていて、そこに文学としての救いは輝いている。
いわずもがなのことだけれど、1945年以降、日本とて事実上はアメリカの半植民地である。さいわい日本は公用語こそ日本語でありつづけたものの、後期昭和における、知識人のほとんどは嬉々として欧米的価値観を内面化していった。たとえば戦後生まれの村上春樹も村上龍もアメリカに憧れ、それはサザン・オール・スターズの桑田佳祐のアメリカ大好きと本質的にかわるところはなにもない。すなわち、この小説の元判事がイギリス的価値観を内面化させ、ヒロインのサイもまた同じくであり、料理人とその息子ビジャイがともにアメリカを夢見ていることと同じである。
もっとも日本においてはバブルのピークにおいて昭和も終わり、いくらか欧米礼賛熱も醒めたように見えもすれば、それと同時に新手のウヨクも多数現われたとはいえ、かれらの愛国もまた、この小説におけるギヤンの「愛国」とかわりはしない多分に衝動的・気分的なものである可能性が高い。もうおわかりでしょう、アニタ・デサイのこの小説『喪失の響き』は、(一方でポストコロニアル文学の傑作でありながら、他方で同時に)そっくりそのまま日本の戦後文学として読み替えることさえできるのだ。
そう、この小説、キラン・デサイの『喪失の響き』は、ラシュディ・チルドレンのなかのひとつの達成であるとともに、はからずも、日本人の読者には、現在の日本を"ポストコロニアルなまなざしで"見ることをもうながす。むろんそれはスリリングな体験だ。この、いかにも二十一世紀の英語小説らしい、チャレンジングでチャーミングな傑作の登場に、おれは立ち上がって拍手を送りたい。つい訳文にはいろいろ不満も書いてしまったけれど、拍手の一部は、むろん訳者に送られている。
■ キラン・デサイ(1971年-) Kiran Desai
1971年生まれ。インド、ニューデリー生まれの英語作家。Desai という苗字は、(十パーセント、すなわち一割さん、というような苗字であり)、代々徴税官の家柄であることがわかる。したがってヴァルナ(カースト)は高く、識字階級、カーヤスタだそうな。 キラン・デサイのデビュー作は『グアヴァ園は大騒ぎ』(原著1998年、新潮クレストブック刊)。そして二作目の本書にて、2006年ブッカー賞を受賞、賞金1000万円相当と大きな名誉を獲得した。
ちなみに彼女の母親は、アニタ・デサイ(Anita Desai)、インドの国民的英語作家であり、著作はVintage Press そのほかから出版され、ブッカー賞にも数回ノミネートされている。