もう幕末といっていい時期を生きた、旗本の妻であり、息子・孫である旗本の母・祖母であった「井関隆子」という女性が残した日記を紹介する新書である。
古い時代に生きた人の日記を読むというのは、その時代の公的歴史に出てこない「思いもかけない事実」と、それを書いた人のその時代の政府や事件に対しての本音が読めるということである。
井関隆子は、一度離婚したあと旗本に嫁いだ。夫は納戸組頭(将軍の手許にある金銀や衣服・調度のなどを管理する仕事の責任者)で、身分は非常に高い。政府高官である。その仕事柄もあって、江戸城のすぐ近くの九段下に屋敷を与えられていた。現在でいえば「東京のここである」と地図が載っている。
夫には先立たれてしまうのだが、息子が御広敷御用人(大奥との連絡、事務処理にあたる役職の責任者)になり、十一代将軍徳川家斉の正室・広大院の掛りを長く勤めることになる。この息子が親孝行で、日々帰宅すると母親にその日の出来事を聞かせてくれるので、江戸城大奥の新しい情報が隆子の耳に入る。この親子関係が温かく知的であって、日常的に会話が盛んで、その興味深いところを日記に書き残したというわけだ。
隆子の孫も同じように幕府に重く用いられ、やはり祖母に江戸城内の様々な様子を話してくれる。そうした日常から、「将軍、正室」の側近というのは、こういう生活をしているものなのか、と納得するかなりの贅沢さもわかる。何かというと、将軍や側室からの贈り物がドーンと与えられる。ははぁ、こういうものかとよくわかる。
彼女の「身分と情況」は上記したようなものだが、二度目の結婚をする以前、本人が育った環境もあって学問と洗練された教養を身につけ、漢籍・漢詩に通じ、日本や中国の古典の素養も豊富に持っていた。また日記のみならず創作をものし、詩歌にも巧みであった。
そんなに頭が良くて、高い身分となると「お高くとまっている」賢夫人と思ってしまいがちだが、「賢く」はあっても、物事に対する理解度が深く、また非常に話のわかる女性だったのである。
今日的な感覚で徳川の政治を眺め、天保の改革を批判し、あるいは当時の学者の不勉強をなじり、科学的知識にも興味をもって言い及んでいる。
私が何より喜んだのは、それほど知的レベルが高く、身分的にも非常に高い女性が「なんともお酒が好きで、一杯やりながら人と話す、軽く飲みながら息子から江戸城の様子を聞くのが」大好きだった、というところ。自分の寝室に入ってみると何か置いてあることに気づいて、一瞬機嫌を損ねたが、それが孝行息子が用意してくれた酒だとわかって、たっぷり寝酒をやったというような人なのだ。
お客を迎え、親しい人を迎えると「さぁさぁ、座って、まぁ一杯やりましょう」というような人であったらしい。そういう洒脱な部分も日記に残っている。
日記は、天保11年(1840)の1月から15年(1844)10月までなのだが、将軍が亡くなり、水野忠邦による天保の改革があり、その水野が失脚する。そうしたことについて評論があり、息子や孫たちとの日常が詳しくわかる。幕末の、旗本暮らしぶり、それも上澄みといっていいだろう上級旗本の生活が理解できる。