例年、8月に読む戦争関連の本を探し始めるのは5月頃。今年、いい本があったら教えて欲しいと友人知人に声をかけたのもその頃で、ある出版社にいる友人がこの本を薦めてくれた。
どうしてこの本に気づかなかったんだろうと、発行日を見たら、2007年12月8日だった。1941年のこの日の奇襲で始まった日米間の戦争のごく初期は、日本の快進撃であって、多くの本が勝利に酔っているような内容になってしまう。だから、この時期書店に並ぶ戦争本に手を出すことが少ない私である。それで私はこの本のことを知らなかったのだ。また、真珠湾攻撃の指揮をとった人が淵田美津雄という人物だとも知らなかった。大東亜戦争の軍人たちの名を覚える気もない私。
紙の上、机の上で作戦を練ってあとは人にゆだねるのではなく、この自叙伝を書いた淵田は、実際にあの日飛行編隊の先頭を飛んで指揮した。
元々、真珠湾にいるアメリカの太平洋艦隊を壊滅させるためにはどういう方法があるか、どういう手段しかないかを考え、そのためにどんな訓練が必要かを考えて、それを実行した人物である。 そして攻撃隊の先頭を飛んでいって、奇襲の様子、爆撃の効果をきちんと見届け、帰路を失ったり撃ち落とされたりした者がいないかどうかなどを確認して、あの朝最後にハワイ上空を離れた人だそうだ。ほぼ3時間ぐらいあの上空を飛び続けていたと書く。
実は、その間に被弾して飛行機に穴が開いてしまい、複数のワイヤーで結ばれていなければいけない部分が一本だけになってしまっていて、本当は危機一髪だったとあとでわかる。命拾いである。
さて、そのあとの話だが、アメリカ太平洋艦隊に対して確かに打撃は与えたが、徹底的に壊滅してはいないので、再度の攻撃を加えて立ち直れないぐらいにしなければいけないと淵田は考えていた。それが戦争というものなのに、その第二第三の攻撃をしないで引き上げてしまった日本海軍。
このあたりの、戦争で「勝つためには何をしなければいけないか」を、当時の海軍の偉いさんたちは認識していなかったと書いている。実際はそのあとの攻撃も準備はしてあったのだ。結果論として、その徹底した攻撃をしていれば戦況がいくらか変わっていたはず。
「これでやっつけた」と、自分たちの都合のいいように考え、アメリカ軍についての情報を入手する努力をしていない。
皮肉なことに、アメリカ軍では「ハワイ奇襲を分析して」、これからは空中戦だと結論して、空母や戦闘機、爆撃機の製造に力を入れて行く。そのことを淵田はあとで知ることになった。
水平線に見えた敵艦に向けて巨大な大砲から弾を放って敵を沈めるなど、もう成り立たない戦法になっていた。
レーダーで敵を発見して、水平線の向こうから戦闘機、爆撃機で戦いを挑む時代になっていたのに、帝国海軍の軍人は頑迷だったようだ。
この淵田は、何度も海軍上層部に「巨艦・巨砲主義」を止めて、空母と戦闘機を中心としそれを守る艦隊といった形の戦いに移るべきだと進言している。しかし、ことごとく蹴られてしまう。
昭和に入ってからも日本海軍の首脳には「バルチック艦隊を撃ち破った東郷平八郎」のイメージが色濃くあり、東郷の時代よりさらに大きな戦艦を建造し、巨砲で敵の戦艦を撃つ、とばかり思っていたようだ。そうした発想から生まれた巨艦が、ことごとく飛行機からの爆撃、飛行機が落とす魚雷で沈められる始末。このことに、淵田は繰り返しいらだちを見せている。