また、小田原は風祭村に住み北条早雲とのつながりを持つ風魔一党の頭目で、残虐な攻撃に怖れられた奇怪な風貌の「風魔小太郎」。体躯は七尺(約2メートル)を超える大男で、目は極端に吊り上り、広く裂けた口からは牙が四本出て、低い声は波のように響きわたり非常に不気味であったと『北条五代記』には記されている。
天正九年、甲斐の武田勝頼父子と北条氏直との黄瀬川の対陣では、この風魔一党の武田側への戦いぶりで夜討ちや奇襲は毎夜のように続いた。手当たり次第に将兵を生け捕りにしてなぶり殺し、陣馬の綱を切ってまわり、そこかしこに火を放ち武器・食料を略奪して陣中を阿鼻叫喚の巷に陥れたと言う。一夜明けると味方同士が殺しあっている様な、あまりの惨状に武田勢は震え上がった。
ある夜、武田勢の兵十人ほどが風魔一党に一矢報いようと帰陣を待ち伏せし、一党の仲間に潜り込んだ。この時、小太郎の合図で一斉に松明を灯し、互いに声を出し合いながら一党の者はさっと立ち、さっと座った。風魔の「立ちすぐり、居すぐり」という、紛れ込んだ忍者を見分ける符牒を知らぬ武田兵はたちどころに見破られ、ことごとく斬られたと記録されている。
第三章では戦国忍者が活躍した有名な戦場の中から七選を採り上げている。それらは、これまでの歴史的な経過を「裏兵法」から見た合戦の形勢と、それぞれの布陣での忍者の働きの実態、及び勝敗の行方を踏まえた類書を見ない面白い展開となっている。
第四章では、平和な時代における江戸幕府と忍者の位置付けに視点を移し、戦乱のない世の中で次第に働き場を失いつつある忍者の姿を追跡する。かつて本能寺の変による逃避行で、「伊賀越え」を共にした家康と伊賀忍者頭目の服部半蔵との関係から、将軍直轄「お庭番」として諸大名・各藩の監視などに起用されて内務体制部門としての働き場に移ってゆく「半蔵門」忍者。一方では、その特殊能力を活かした築城・橋梁・軍用道路・鉱山などの技術が見込まれ、全国に散った忍者の働き場の変貌を見届けている。
そして第五章で扱うのは、最後の忍者の働き場として「島原の乱」の顛末に焦点を当て、キリシタン領民の反乱「天草一揆」と呼ばれる原城を舞台にした甲賀衆の闘う忍者の姿が描かれる。そこでは、幕府側松平伊豆守信綱の討伐軍に志願した甲賀忍者十名の働きと、体制側の不手際な実態も浮かび上がる。
信綱の行動は、天草四郎時貞を慕って原城に立て篭もった三万七千人の民衆を、兵糧攻めにする過酷な戦略に追い討ちをかけるため、甲賀忍者が夜陰に乗じて原城に忍びこみ兵糧米を盗み出す出動命令であったと言う。このような経過から、城内の偵察で凄惨な飢え地獄の見極めと攻撃機会発信の役目を果たし、幕府軍の総攻撃による篭城者の皆殺しで「島原の乱」は終わる。
一揆鎮定後、この甲賀十人衆は幕府軍が引き揚げた後も島原に残り、夥しい数の屍骸にも顔をそむけず、原城の後始末を熱心に行って手厚く葬ったと言われる千人塚の存在と、後始末後も江戸に向かわず、また故郷甲賀にも帰らず、隠れキリシタンとなった忍者の姿を著者は見逃さなかった。
よく歴史は勝者の歴史と言われるが、『戦国忍者列伝』を読むと、闇に生まれて戦国武将の功績を支え、また闇に消えてゆく無数の名も無き忍者の群れの、無言の証言を感じずには居られない。時の権力の及ぶ文献には決して現われる事のないこれら忍者の系譜は、敗者の歴史と文化を伝える無二の存在だと気づかされる。
日本史をパースペクティブの視点から見た場合、いつの日か本書の記述に含まれる隠れた歴史がミッシング・リングに繋がる瞬間があるかもしれない。歴史ファンや忍術好きに限らず一読をお薦めしたい。