<成り上がり>っていう主題についても語らなくちゃいけない。主人公サトペンは、子だくさんの貧しい白人の家に生まれ、少年時代に(貧しさのゆえに)ある屈辱的な体験をしてからというもの奮起し、成り上がることを誓う。そう、それ以来というもの、かれは階級上昇のために粉骨砕身の努力をし、成人してからというもの、先住民族の土地を安値で買い叩き、ハイチで黒人奴隷の反乱をうまく収め、農園を開く資金を稼ぎ出し、黒人奴隷たちをいっぱい買って引き連れて現われ、百マイル平方の農場経営をし、芸術家肌のフランス人建築家に建てさせた大豪邸に住んだ。男なら夢を持て。負けるな、人に踏みつけられるなら踏みつけてやれ。ビッグになれ。ビッグの次はグレイトだ。ざっと、まぁ、そんな人生の物語をサトペンは見事に生き切ってゆくかに見えた。
いまにしておもえば、成功を夢見て、たゆまない努力を捧げ、自分の王国の樹立のために邁進したサトペンには、無垢な精神があったに違いない。ただしサトペンのイノセンスは、無垢とはいえ、好日的な楽天性とは無縁であり、むしろがむしゃらさのなかに殺気すら感じさせる。
しかし自身の王国を築きあげた後に、おもいがけない理由から、かれの計画は蝕まれてゆく。しかも王国崩壊の原因となったのは、純潔主義の挫折であり、(あけすけにいえば黒人の血が混じったことであり)、さらにはきょくたんに肥大化した純潔主義の果てに近親相姦を成す者が一族に現われたためである。しかもそれは息子と娘の自分への裏切りでもあった。その上、折りしもかれらの南部は南北戦争にも敗れ、それまでの奴隷制に依拠した社会秩序も崩壊してゆく。
いったいこの気宇壮大で怪物的な小説に、どんな場所に遇し、どんな評言を差し向ければいいだろうか?
そもそも作品世界を理解することが一苦労である。なるほどすぐれた小説は必ず、読者に再読三読を要求するものである。ただし、この小説においてはその意味がどくとくに異なっている。なぜなら、この小説においては、一回(けっこう苦労してそれでも)読み終えた段階では、事実群のアーカイヴを入手したにすぎず、そこに秩序を与え、なにが真実かを見極めるのは、読者のその後の探求にゆだねられている。そう、一回読了してから、はじめてこの小説の解読の旅が始まるのだ。なぜって、芥川の『藪の中』さながら、登場人物それぞれの証言が食い違い、読者は、けっして確信をもって全体像を理解することができない。この小説を苦労して読み終えた後、謎がむらがり現われ、なんとか整理し、混沌に秩序を与え、真実を見つけ出したくてたまらなくなる。だが、そうおもったときはすでにフォークナーの術策にまんまとはまっているのである。
この小説は、いっけん一族の物語であり、小さな村の物語でありながら、それと同時にアメリカ南部における、南北戦争の敗戦以来の複合観念(コンプレックス)をも描き出している。ここが、凄い。すなわち、アメリカ南部とは、かつて開拓者たちの勝利とともにある土地であると同時に、傲岸不遜な征服者が原住民から奪い取った土地でもあった。しかも農業中心の土地であったがゆえ、十九世紀後半にあってなお奴隷制を手放せず、しかも工業化社会の時代に入り奴隷制を手放そうとするアメリカ北部と対立し、北部と戦争し、しかもボロボロに負けてしまった。それ以来というもの、長きにわたって南部は敗北者の土地でありつづけた。逆にいえば、『峠のわが家』だのブルーグラス・ミュージックや、かつてのケンタッキー・フライド・チキンのコマーシャルに代表される古き良きアメリカ南部のイメージは、南北戦争の敗北という心の傷の代償に、1940年代に作り出され、それ以降称揚されたものではなかったか。