私は新聞社に勤め始めて、ほぼ20年になる。月日だけを考えれば「ベテラン」の域に入ってきた。それなのになぜ「取材学」なのか? 恥ずかしい話だが、私はいまだに取材とは何なのか、よく分からないでいる。記者にとって「取材」というと、もっぱら人から話を聞くことを意味する。これが、怖くてたまらない。人に会うこと以上に刺激的な経験はないし、「いい話」を聞けたと確信したときは快感が体を貫く。だが、今まで取材が「楽しい」と思ったことは一度もない。いつも最初は、足の届かない深い海に体を浮かべる心細さがある。全然慣れるものではない。
おそらく向いていないのだろう。とはいえそれを仕事にしたのだから、何とか帳尻を合わせる必要がある。幽霊の正体見たり枯れ尾花、という。要は分からないから怖いのだ。R書房の棚にこの本があるのを、前から見て見ぬふりをしていた。思い切って手に取って、著者の加藤氏が学習院大や放送大の教授を歴任した学究の徒であったことを知り、少しほっとした。同じ大学教授でも、新聞記者上がりが「取材うんぬん」を評した本など、読んでもストレスになるだけだ。
断っておくと、この本は特別、「記者向け」に書かれたものではない。加藤氏は冒頭、本を書こうと思った「動機」としてこう述べている。<日本の学生たちの多くが、ものを知ろうという情熱をもっていないばかりでなく、かりに知りたいという欲求をもっていたとしても、知るためのごく簡単な手つづきさえ知っていないらしい、ということを発見したからだ。ひどいばあいには、図書館を使ったことのない学生もいる>
耳が痛い。まるで私のことを言われているようだ。だが、本が書かれた1975年当時、私はまだ小学生だった。一方、インターネット全盛の現在、大学教授は学生にリポートを提出させる際、目の前で一度口に出して読ませるという。読めない漢字があれば、ネットからコピペした(コピーして貼り付けた)ことが分かる。今どきは「学力低下」とか何とかいろいろ言われるけれど、どうやらここ30年ほど、この国の学生の出来はあまり変わらないようである。
それはともかく、加藤先生は教え子の頼りなさにほとほと手を焼いて、「取材学」の手ほどきをしようとした。つまり、ここでいう「取材」とは、一般的にあるものについて知りたいという欲求を持ち、そのために必要な情報を手に入れること――の意味だと分かる。情報といっても文字とは限らない。ビジネスマンが営業活動に先立って顧客のニーズをつかむとか、主婦がスーパーで晩ご飯の材料をそろえるとか、要するに日常のたいていのことは取材から始まり、それには経験による上手下手がある。だから「学」が成り立つ。要するに取材とは、マスコミ関係者の独占物ではないのだ。
では、逆に私のような記者を生業にする人間にとってあまり役に立たない本かというと、とんでもない。著者の加藤氏はフィールドワークで大工や料亭の板前といった職人に「取材」した結果として、仕事の出来ばえを決めるのは「材料7分、腕3分」という法則を発見している。いくら腕がよくても、いい材料を選ぶ(=取材)ほうがおろそかではどうにもならない、というのである。
それを読んで、私は20年前の新人記者時代を思い出した。たった数十行の原稿をひねり出せなくて何時間もうなっていた私に、先輩記者はこう言ったのだ。「堀君な、原稿を書くのが遅いのは、要は取材不足なんだよ」。十分に材料を集めてもいないのに組み立て始めるから苦労するということだ。取材が苦手な私にとっては、著者から改めて「記者は取材7分」と道を諭されるようでつらくもあるが、逆に記者のみならず、大方の仕事には取材活動が必須なのだと気づかされれば、逃げ回っても仕方ないか、と開き直る気持ちになれる。