さて、デビュー作にはその作家の特徴が全て出ると言われるが、「DL2号機事件」は、先述のように極めて高水準の作品である。いくら特徴が出るといっても、これでは初手からハードルが上がり過ぎであり、普通の作家なら後が続かない。ところが恐ろしいことに、このクオリティは、《亜愛一郎シリーズ》全二十四短編を通して、維持されるのだ。
タクシーの車上強盗といきなり現れた死体に関する「G線上の鼬」、商店街にカーボンがぶちまけられる事件に意外な真相が隠されている「黒い霧」(以上『狼狽』所収)、一夜にして家屋が消失した謎を解く「砂蛾家の謎」、新人タレントのオーディションで亜がある不可思議な事柄に気付く「珠州子の装い」(以上『転倒』)、歯科診療でのちょっとした出来事からこれまた意外なことが明らかになる「歯痛の思い出」、ある画家の意外な過去が明かされる「赤の賛歌」(以上『逃亡』)などは、本当にすばらしいと思う。しかし、これはあくまで筆者の好みによるもので、人によって、お気に入りの作品は違ってくるはずだ。正味のところ、どれも同格にすばらしいです。ただし最終短編の「亜愛一郎の逃亡」は、シリーズ全体に幕を引くための作品で、これだけはミステリとしては一段落ちる。
興味深いことに、《亜愛一郎シリーズ》には、最初に殺人事件がインパクトたっぷりに起き、それを登場人物が調査・推理する、という展開を辿る作品が少ない。それよりも、中盤までは、大したこととは思えないが不思議な出来事が続き、亜愛一郎がその真相を見破って、背後に隠された大事件が明らかになる、という作品が多い。ここからは、最初から殺人を出さなくても、最後で明らかになる奇怪な論理があれば読者に与えるインパクトは十分、という作者の自負を見て取ることができよう。
この三冊の前では「必読」という言葉すら虚しく響く。本格ミステリ・ファンであるなら、当然に読んでいるはずの本。それが《亜愛一郎シリーズ》なのである。まだ読んでいない人は、可及的速やかに手を着けてほしい。むしろ、この傑作をこれから初めて読めるなんて、本当に羨ましいです。
そろそろ字数も尽きるが、最後に悲しい話をしなければならない。
これほどの作品をものした偉大な作家・泡坂妻夫は、今年の二月、天に召された。享年七十五。最後まで現役で、近年も毎年のように新刊を出されていただけに、筆者はまだ実感を得ることができないでいる。もう新刊を読めないと思うと、あまりにも早過ぎたとの思いを禁じ得ない。
創元推理文庫には、《亜愛一郎シリーズ》の他にも泡坂妻夫の傑作が収められている。泡坂妻尾は手品の名手だったが、この手品をテーマとして扱う『11枚のトランプ』、トリック尽くしの強烈な展開が楽しめる『乱れからくり』、文体を変えて妖艶な世界を構築した『湖底の祭り』といった長編群に、亜愛一郎のご先祖様の活躍を描いた連作短編集『亜智一郎の恐慌』、そして先述の『煙の殺意』。いずれもすばらしい作品で世評も上々、本格ミステリ・ファンにとっての基本書となっている。
この中で、まだ読んだことのない作品がある人は、是非手に取ってほしい。また、もう読んだよという人も、追悼を兼ねて再読してみてはどうだろう? 至福のひと時を過ごせることは、保証されているのだから。