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1Q84 BOOK1・2

私が知っているそのことについて、私は何も知らない、ということ。あるいは、私が何も知らないそのことについて、私は知っている、ということ。

村上春樹
新潮社小説] 国内
2009.05  版型:B6
>>書籍情報のページへ
レビュワー/北條一浩

ここでもう1つ、アクセルを踏み込みたいのだが、『1Q84』がこれまで以上に「歴史」のほうに踏み込んでいると感じられる理由の一つに、「家族」という問題がある。『1Q84』は、具体的な組織名をモデルとして挙げられそうな宗教組織がいくつか登場し、おそらく阪神淡路大震災も残響し(冒頭の高速道路がそうだと思う)、満州も含めた昭和史が召喚され(これまた冒頭のヤナーチェックの『シンフォニエッタ』が作曲された一九二六年とは、大正15年であり昭和元年のことである)るのだが、従来の村上作品には無かったリアリティを伴って描かれるのは、青豆と母親との関係、とりわけ天吾と父親の関係に表れているなにかである。

【天吾は膝の上で手の指を組み合わせ、父親の顔をもう一度正面からまっすぐ見た。そして思った。この男は空っぽの残骸なんかじゃない。ただの空き家でもない。頑強な狭い魂と陰鬱な記憶を抱え、海辺の土地で訥々と生き延びている一人の生身の男なのだ。自らの内側で徐々に広がっていく空白と共存することを余儀なくされている。今はまだ空白と記憶がせめぎあっている。しかしやがては空白が、本人がそれを望もうと望むまいと、残されている記憶を完全に呑み込んでしまうことだろう。それは時間の問題でしかない。彼がこれから向かおうとしている空白は、おれが生まれてきたのと同じ空白なのだろうか?】

満州から引き揚げてきて、人を介してNHKの集金人を務めていた天吾の父親は、天吾が幼い頃、わざわざ日曜日に天吾の手を引きながら各家庭を集金に回った。そのほうが(つまり、幼い子を連れて戸口に立たれたほうが)金を払わざるを得ない状況が生まれるからである。天吾にとってはこの日曜日がイヤでイヤでたまらなかった。その父親が4年前に退職し、ほどなく認知症患者のケアを専門にする千葉県千倉の療養所に入ったのである。
これは、その父親を天吾が訪ねた時の場面。自分の息子も認知できない父親に相対しての記述である。

いささか悲劇的ではあるものの、このようなディスコミュニケーション的なコミュニケーションを経て、ようやく天吾は、どうしても好きになれなかった父親と向かいあっている。「ただの空き家でもない」という、家のメタファーを用いた記述が印象的だ。ひとりの個人にとって、いちばん間近にあって思うように制御できず、しかし確実に自分自身の一部を構成する「歴史」とは、いうまでもなく「家族」である。昭和史や戦後史、あるいはもしかしたら「家族」に代わって人間の共同体を新たに構築する試みとして出発しながら、いまや巨大なモンスターと化してしまった宗教組織などが渦巻く「1Q84年」にあって、個人と「歴史」をつなぐ回路として作家が提出したものが「家族」ではなかったか。

冒頭で、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』をめぐって、なぜかそれを「知っている」青豆について書いた。同様に天吾も、深田恵里子=ふかえりの紡ぎだした『空気さなぎ』という作品の共同執筆者になることについて、「それは一種の詐欺行為である」と気後れしながらも、けっきょくは自ら進んでその「詐欺行為」の方に加担してしまうだろう、抗うことができないだろうということを「知っている」。

いわば青豆も天吾も、私が知っているそのことについて、私は何も知らない、という状態にある。私はなぜかいまラジオから流れている音楽がヤナーチェックの『シンフォニエッタ』であり、それが一九二六年に作曲されたことまで知っているが、自分がなぜそのことを知っているのかを知らない。あるいは逆に、私が何も知らないそのことについて、私は知っている、と言ってもいいかもしれない。私は『空気さなぎ』という物語の意味するところ、その物語が人々に何をもたらすのかを知らないが、私がそのことに深くかかわるであろうことを知っていると。

1984年と1Q84年。たぶん、2つの世界があるのではないのだろう。私に向って「歴史」が殺到する時、世界はねじれて「1984」は「1Q84」になる。

私は「私」という、歴史的身体なのである。そのことを、基本的にダメ人間側に身を置きつつ(自らダメ人間と称することのズルさはいちおう自覚しておりますが)、『1Q84』を読みながらツラツラ考えた。『1Q84』読書中の金縛り(二夜連続は滅多にないこと)は、筆者にとってささやかな、あまりにささやかな「歴史」の体験である。

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