ある作家の文章が高い技術を持っているどうか、そしてじゅうぶんに説得的で美的で音楽的であるかどうかを判断するには、おそらくいくつかの見分け方があるだろう。例えば、本質的に長編作家である人物がいるとして、その作家が新聞や週刊誌に書いたごく短いコラムやエッセイを吟味してみるという方法がある。そこにあらわれた文章の「短さ」は、読者にフォーカスを合わせやすくしてくれるはずである。
しかしなんといってもいちばんベストな判別方法は、その短編を読んでみることだと思う。なにしろその人は小説家であり、コラムニストでもエッセイストでもライターでもないのだ。小説を書けるのは小説家だけである。もしコラムニストやエッセイストやライターが小説を書き、それが優れた小説だとしたら、書いている時間にその人は小説家であり、コラムニストでもエッセイストでもライターでもない。そして小説家が優れたエッセイを書いたとしたら、その時間はエッセイストなのであり、村上春樹はまぎれもなくそうした人物の一人である(村上春樹のエッセイの素晴らしさについてはもっと語られるべきだと思うが、それについて触れた村上春樹論は、非常に少ない。というか、ほとんど、ない)。
さて、今回取り上げる『めくらやなぎと眠る女』は、外国の読者向け(英語版)に編集された著者自選の短編集『BLIND WILLOW,SLEEPING WOMAN』とまったく同じ構成を、日本語で出版したものである。2005年に『THE ELEPHANT VANISHES』がアメリカのKnopf社から発売され、その逆輸入版として新潮社から『象の消滅』が出たが、まったく同じ形を取った第二弾ということになる。『象の消滅』が、1980年~1991年に書かれた、いわば「初期短編集」という趣の本であるのに対し、今回は1980年~2005年と、ほぼキャリアの全般に渡った選択であり、収録作品数も、17から24に増えている。
『1Q84』についていろいろな人がいろいろなことを書き(私もその1人)、なんだかよくわからないうちに途方もない売れ方をして、そのすぐ後ということもあって世間が「春樹疲れ」でもしているのか(正月の雑煮みたいな言い方をしてすみません)、『めくらやなぎと眠る女』はさほど話題になっている様子がない。しかし、この本は「村上春樹って、こんな作家だったんだ」という事をあらためて「発見」するには最適の本である。「発見」だから、長年のファンにとっても、初めて読む人にも意味がある。しかも、大幅に書き直した作品もあれば、「蟹」のように書き下ろし・本邦初出作品もあり、24篇入って1,470円。かなり、おトクなのである。
【できるだけ簡単に定義してしまうなら、長編小説を書くことは「挑戦」であり、短編小説を書くことは「喜び」である。長編小説が植林であるとすれば、短編小説は造園である。それら二つの作業は、お互いを補完し合うようなかっこうで、僕にとってのひとつの重要な、総合的な風景を作り上げている。緑なす林が心地よい影を大地に落とし、風に葉をそよがせる。あるいは鮮やかな黄金色に染まる。そしてその一方で、花が確かな蕾をつけ、色とりどりの花弁を開き、虫たちを呼び寄せ、季節の細やかな移ろいを知らせてくれる。】
これは、「Blind Willow,Sleeping Womanのためのイントロダクション」と題された文章の冒頭の一節。端的で美しい比喩である。このパッセージを字義通りに受けとめれば、我々が読む=見る・聞くのは、園丁によって造られた庭に咲く花々であり、そこに集まってくる虫たちの羽音ということになる。それは一つの確かな「世界」であると同時に、「園」としての「世界」の向こうには山があり、海が、川が、街があって、それらより大きな「世界」の中に囲われた、小さな「世界」ということになるだろう。
短編は長編のミニチュアではもちろんないが、しかしながら1人の作家がその長編小説の主題として追求している事柄や、長編の仕掛けとして用いられるモノなどが、思いがけない形で登場することがある。あの長編、この長編にも書かれていた、ある「モノ」が、一つの短編の中でグッと前景化していたり、物語の起点として機能していたりする。特に村上春樹は、ある短編が、ある長編の一部として組み込まれる(例えば『めくらやなぎと眠る女』にも収録されている「蛍」と、『ノルウェイの森』の関係がそうだ)ことが少なくないので、そうした「モノ」がどこでどう機能しているかを知ることは、たいへんスリリングである。
【いとこは右の耳が悪い。小学校に入ってすぐ、耳に野球のボールをぶっつけられて、それから聴力に障害がでるようになった。とはいっても、ほとんどの場合、日常生活に支障をきたすほどではない。だから普通の学校に通って普通に生活している。】
表題作で、いちばん最初に収録されている「めくらやなぎと眠る女」の一節である。耳。村上春樹の読者なら、この作家が、「耳」に対してただならぬオブセッションを抱いていることは周知の事実だろう。なにしろ、「耳専門のモデル」まで出てくる(『ダンスダンスダンス』)のだから。
村上春樹『1Q84』の書評も収めていますので、ぜひお楽しみください。
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