続いては、先にあげたラルボーの『幼なごころ』で解説を書き、『幼なごころ』をめぐるエッセーも収録されている堀江敏幸氏の最新作『彼女のいる背表紙』。
堀江氏の処女作『郊外へ』を読んだことのある人ならきっと首肯してもらえると思うけれど、堀江敏幸という人の書きものには、我々がいちおうの目安にしている「小説」だとか「エッセー」だとかいうジャンル、それどころかフィクション/ノンフィクションという区別さえ、いつのまにか関節を外されるような、まるで脱臼してしまった腕のように、気持ちがブランブランしてしまうようなところがある。
実際、留学先での経験を綴ったみずみずしいエッセーだと思って『郊外へ』を読んでいるうち、「あれっ? どうもフィクションが混じっているみたい」なんて思っていたら、仏文出身の何人かの知人が、「あれって全部完璧にフィクションらしいよ」なんて、そっと耳打ちしてくれたりもして、どうにも収まりが悪いというか、しかしこれまであまり読んだ記憶が無いような種類の散文の作り手として、堀江敏幸という名前は刻まれたのだった。
そう。あの時の覚束ない感触の残響が、最新刊の『彼女のいる背表紙』でも鳴っている気がするのである。40代女性が読者の中心という雑誌「クロワッサン」に連載されたこれらのテキストは、これまで堀江氏が読んできた文学作品(主に小説だが短詩型もある)のうち、記憶の中から女性の登場人物を呼び出し、再読を通して「彼女」たちに「再会」を果たすという、企画としてちょっとユニークだが、といって特に不可思議なところのない本ではある。
が、しかし。収まりの悪さ、気持ちの片付かなさを読後も引きずりながら、同時にこれだけ鮮烈でもあるという読書は、なかなか味わえるものではないと思う。それくらい他に類を見ない本なのである。日本では「エッセー」という便利な名前というか、「ぬえ」みたいな存在があって、そこでなんでもかんでもカバーしてしまうので、まああっさりと言ってしまえばこれはエッセーであると言って間違っていないだろうけれども、もしこれを「書評集」と読んだら、それはすこぶる新しい種類の書評の束ということになるし、本という枠を外してしまえば、堀江氏がかつてこれほど集中して1冊の中で「女性」、それも国籍も身分も年齢もまちまちの「女性たち」を描いたことはないのだし、とにかくなんだか不穏な本、なのである。
サボった授業の担当教授と、高田馬場の映画館(これは間違いなく、今は失きパール座ですね)でバッタリ会ってしまう思い出から書き起こされる「ふくよかな通俗」。都心の百貨店のエレベーターでたまたま乗り合わせた二人連れのご婦人の口から洩れた、タンジュウシツ(胆汁質)という聞き捨てならない一語の記憶から出発する「肝の汁、もしくは善人のまぼろしについて」。ある日突然、「道路恐怖症」なる病を発症し、以来一切の運転ができなくなった友人の経験と連絡しながら記述を進めていく「天使の降りる場所」。「きみはきみのつめたい春でぼくの頬を打った」なんて、ジュリアン・グラックの鮮烈な一文をそのままタイトルにしたのもある。どれを取ってもいいのだけれど、「測候所とマロングラッセ」という、実に堀江敏幸的な(?)表題のテキストから冒頭部分を引いてみよう。
【たどたどしい、という言葉は、ふつう、未熟さ、危なっかしさを意味する形容詞として用いられるのだが、技術の巧拙とは関係なく、一途な想いが産み落とした純粋無垢な状態からくるたどたどしさもあるのではないだろうか。文字の何歩か先をつんのめるように歩いて行く想いを目と手が必死で追いかけ、言葉そのものの微熱と、後を追った結果として生じる共振のようなものが、それ以上手を加えることのできない独特のリズムを生むことも、あるのではないだろうか。】
これは、「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」という有名な一行詩「春」で知られる詩人・安西冬衛の妻・美佐保の回想録『花がたみ 安西冬衛の思い出』について書かれたものである。この章で著者が出会う「彼女」は、実際、まさしく「独特のリズム」で書かれた安西美佐保の文の中にいる、美佐保その人だ。「妻が亡き夫に書いた恋文のような一節」に対して、堀江氏の視線は温かく、しかしあくまでも冷静である。
1冊の本が書かれることが、著者にとってひとつの経験であるように、1冊の本を読むことが読者にとって時に痛切な経験であるということ。そして、再読という経験がもたらす慰撫と残酷とを、堀江敏幸氏は淡々と、しかし熱をもってあぶり出す。
またしても☆☆☆☆☆。もしかすると、堀江氏の最高傑作になりうる1冊ではないかと思う。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |