吉田修一作品のマイフェイバリット3は『パレード』『悪人』『さよなら渓谷』。どこにでもいそうな人物の思いがけないダークサイドにひやっとさせられると、どうもツボなのだ。そういう見方に則れば、本書は私の好きなスタイルの吉田修一ではないのだが、この小説は、実はとても難しい試みに挑戦したという意味で特筆に値する。
主軸となるのは、大学入学のために九州から上京した横道世之介という青年の、ちょっと浮き足だった1年を追うストーリー。そこに、世之介と関わった人物たちの10数年〜20年後が、現在という位相から挿し挟まれる。つまり、世之介を軸とする12ヶ月はバブル真っ盛りの20年前の出来事なのだが、回想ではなく現在形で進む書き方になっている。読者はふたつの現在を行き来することで、よりビビッドに世之介という人間の稀有な個性を知ることになる。
キャラ立ちという点では、世之介の恋人になるちょっとズレたお嬢様の祥子や、アパートがクーラー付きのせいで夏の間ずっと世之介に居座られるゲイの同級生・加藤、突然思索に目覚めた小説家志望の世之介の従兄・清志など、世之介を取り巻く面々のほうがよほど際立っているのだが、これといった長所はないのに、出会う人が老若男女のいずれであろうと、瞬時に相手の懐に入り込んでしまえる愛され力が世之介にはある。考えてみればこれが大抵の人間には真似できない特性で、世之介はなかなかの人物だと思わざるを得ない。
存在感とは、その場にいないときに他者がどれだけその人のことを思うことがあるか、話題にするかで測ることができると言った人がいるが、まさに世之介は“何だか気になるヤツ”なのだ。
その世之介が、もののはずみで変わったサークルに入ってみたり、ちょっと時給のいいアルバイトに精を出したり、年上の高嶺の花に熱を上げてみたりと、青春期に誰もが通るような平凡な体験を積み重ねていく。
しかし、世之介の脳天気な日々の周辺では、安泰だったはずの人生から進路変更を余儀なくされる人々が現れる。世之介や祥子がのちに選んだ職業だって、確固たる夢や野心から決めたというよりどこか成り行きめいているわけで、人は案外ささいなきっかけで、歩む道筋ががらりと変わってしまうものかも知れない。わかっているようで普段あまり意識していない事実を、著者は本当に小さなエピソードを刻み続け、そっとささやく。
さて、著者がやろうとした難しい試みとは何かと言えば、淡々と回転し続ける日常というものをあるがままに俯瞰し、縒り合わせて、世界のしくみや人生の摩訶不思議さに思いを馳せる共感や愛といったものを、読者の胸に灯すことだったのではないかと私は思う。
中島みゆきが歌う「時代」よろしく、世界は悲喜こもごもが繰り返されて成り立っている。あらゆる人に感情があり、大切な人やものがあり、その周辺では命が生まれ、消えていく。そのことを本書は、過剰なドラマに頼らず、物語を牽引する傑物も出さず、ほぼ明るいトーンで語り続けてみせたのだ。
おまけに、物語の中盤過ぎにはもう、本書の核となる重大事件が大したタメもなくさらりと書かれてしまう。その思い切りの良さを含め、相当ハードルの高い演出をしていますよ、この長編は。
もちろんそれは、小説職人とでも呼びたい“読ませる筆運び”があっての芸当。おかしくて軽妙なのに、的を射ているフレーズが多い。語りの冴えについつい取り込まれてしまうとも言えるが、楽しい小説が読みたい、ほんのちょっぴりじんとしてみたい、そんな人にはうってつけの一冊だ。
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