最後は、木村衣有子さんの『京都のこころ A to Z』です。「辺境」日本の中心であり、長い期間、都として君臨した京都は、江戸時代以降は都を東に譲り、今はむしろ余裕で「辺境」を楽しんでいるように見えます。京都には東京に無いものがいっぱいあり、古いものがたんとあって、でも、同時にいつもあたらしい。京都はいつだっていい感じのマイペースで動いていて、そこがなんだかうらやましいし、ちょっとズルい。そんな京都の魅力と秘密が、この本から垣間見えるようです。
Aなら「ART」で、京都芸術センター。Bは「BOOK」で、恵文社一乗寺店。Cは「CUP」で、スマート珈琲店のお土産。こんな具合に、アルファベットのAからZまで26の頭文字でキーワードを抽出し、それぞれ木村さんが選んだ、京都のエッセンスがキュッと詰まったお店や品物や場所などを取り上げています。
【ギャラリーあり、ステージあり、図書室、喫茶ありの『京都芸術センター』を、私や友達のあいだでは、通称、「明倫」と呼んでいる。ここは1993年までは「明倫小学校」だったからだ。とはいえ、私自身が通っていた片田舎の小学校とは比べものにならないほど、建物は立派だ。一見したところ小学校らしくはない。しかし、その重厚な佇まいには、いろいろなものが大きく見えていた子どものころの感覚が取り戻される。そして中に入ると、廊下の中心に引かれた白線、教室にある黒板、水飲み場など、学校らしいそこかしこに、懐かしさを喚起させられる。】
冒頭の、京都芸術センターについての書き出しの部分です。早くもここに、本書の特長がいろいろ出ていると思います。まず、著者のプライベートな経験が語られていること。この本のいちばん大事なポイントはここで、「誰か優秀なライターが書いた」のではなく、まさに木村衣有子さんという人が書いた、ということがハッキリわかります。「そんなの、あたりまえじゃん」と言われそうですが、こうしたガイドブック的な本の場合、著者の「私」性はあまり出てこないのが普通だし、出たら出たで、妙に文学的すぎる、冗長な一人語りになったりして、なかなかうまく行っていないことが多いのです。
また、何を取り上げるかについても、木村さんの眼と耳、感覚が生きています。京都には、訪れたいスポットや触ってみたい、見てみたい物がたくさんあって、そこからチョイスするのは、楽しくも困難な作業です。どの本にも出ているようなものではつまらないし、マニアックすぎたら読者は読んでくれない。良さそうだな、と思っても、どうもいまひとつ興味が薄ければ、筆は正直な結果を導き出すはずです。
このあたりのバランスが、『京都のこころ A to Z』は絶妙なのだと思います。1冊の本にする、ということについて、よくよく考えられている。そのバランスも、木村さんが「ここを取り上げたい」という強い思いが先にあってのものだというのは、言うまでもないでしょう。ちなみに筆者は、ご他聞に漏れず京都好きで、これまで京都には、修学旅行に始まって20回以上行っていますが、今回この本で取り上げられえた「A to Z」のうち、見たことも聞いたこともないのが8つもありました。まあ、筆者自身がうすぼんやりしているという可能性は大いにありますが(!)、それにしてもさすがに京都は奥が深い。京都に8年間住んだ人にしかわからない表情が、やはりここにはあると思います。
【水路閣の上にのぼってみる。水の中には、小さい魚が泳いでいた。流れにしたがってずっと歩いてゆくと、蹴上(けあげ)発電所に至る。もう少し下ると、広い通りにぶつかる。三条通りだ。十数年前までは、路面電車がここを走っていた。近くの高校の生徒がわらわらと乗りこんでいて、風情ある学生生活だなとうらやましく見えた光景だったから、なくなったのはもったいない。】
これはNのところ、「NANZEN−JI」(南禅寺)のくだりです。ああ、懐かしい! 一気にこちらの「私」の回路につながりました。筆者も、今はなき京都の路面電車に乗ったことがあります。歩いているうちに、あれっ、あんなところに路面電車がある、と行きあたりばったりに乗り込み、そうしたら「近くの高校の生徒がわらわらと乗りこんでいて、風情ある学生生活だなとうらやましく見えた」のでした。ここ、ほんとうにまったく同じで、まるでデジャヴのよう。
そういえば、路面電車、あったなー。乗ったなあ。時々、そう思い出すのですけれど、調べてみる前にまた忘れてしまい、ただなんとなく、どこかから歩いてきて、大きい通りに出て、路面電車が向こうからやって来て……と、その映像だけはうっすら残っていたのでした。そうか、あれは南禅寺に行った帰りだったのだな。あれは三条通りだったのだな。長く京都に住んでいる方からみたらアホらしい話でしょうが、懐かしさと共に気持ちがスッキリしました。うん、この本を読んで良かった。
『京都のこころ A to Z』は写真もとても良くて、パラパラッと写真だけ通してめくって見ても、この本がていねいに作られていることがわかります。ここにある写真は、対象をしっかりと写した情報としての機能はもちろん、1枚の独立した写真としてキャプションなしでもずっと見入ってしまうようなもので、文庫サイズでもその美しさはキッチリ伝わるはずです。
ほんとうは「あとがき」の文章がとてもステキで、どんな人がどんな思いでこの本を書いたかがそれでわかるのですが、もったいないのでここでは書かずにおきましょう。
京都はやっぱり、いいなあ。古いものがちゃんと残っていて、でもその「古いもの」は、我々の手がまったく届かない、はるかに遠いいにしえの都が遺したものばかりではなくて、明治や、昭和の「古いもの」も大事に残されていて、そんな土台の上に、あたらしいものを乗せてくれる度量もあって(いじわるもきっとあるに違いないでしょうが)、実は刻々、変わっている。京都が魅力的なのは、変わらないから、ではなく、いつも変わっているから、なのではないかと、この本を読んであらためて思ったことでした。
『京都のこころ A to Z』には、木村衣有子さんの「私の京都」があり、その眼を通して、「みんなの京都」がパッと視界に開けてくる。そんな感じがします。
これから年末にかけて、あるいは年明けでも、京都に行かれるという方には、とってもオススメの1冊です。いろいろ書きましたが、エッセイとして新幹線の中で読むも良し、京都駅に着いたらそこからはもちろん、チャッカリ、ガイドブックとしても有効な1冊になります。文庫だから、持って歩けるし。
どうやら京都熱の症状が再発してしまったようで、ハイ、何の文句もございません。
☆☆☆☆☆。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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これは困った | ☆ |