さて、そういうわけで(?)今回は「戦争」がテーマである。紹介する小説『カデナ』はその名の通り、沖縄の米空軍嘉手納基地と、基地を取り囲むコザ=現・沖縄市=などの街(というよりも嘉手納基地が3市町の上にある)が舞台だ。本の帯の後ろのほうに「1968年夏、沖縄、アメリカ、ハノイ」とある。米国は1961年、南ベトナムに正規軍を派遣。1964年のトンキン湾事件(米側の自作自演とされる)を口実に翌年から全面的な北爆(北ベトナムへの空爆)を始め、米国はベトナム戦争にのめり込んでいく。
1968年とは1月末の南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)による「テト攻勢」をきっかけに戦況の逆転があった年で、同年2月にB-52爆撃機が嘉手納に配備されている。この本は、嘉手納基地所属の女性下士官・フリーダ=ジェイン・ミラーと元サイパン移民の沖縄人(うちなーんちゅ)・嘉手苅朝栄、ベトナム人の貿易商・安南さん、タカこと地元の若きロックミュージシャン・平良高弘の4人が組んで、圧倒的な破壊力を持つB-52の爆撃情報をひそかにベトナム側に流す「スパイ活動」をする物語である。
物語はフリーダ、朝栄、タカの3人による「語り」を継ぎ合わせるスタイルで進んでいく。米国人の父、フィリピン人の母を持つフリーダ(基地の中では米国名の「ジェイン」を使っている)は基地指令官の秘書という立場から極秘情報にアクセスできる。しかし、同時にフリーダはB-52パイロットのパトリック・ビーハン大尉と恋仲になる。祖国と恋人を裏切る行為にフリーダは懊悩するが、もう一つの祖国フィリピンと同じアジアの子どもたちが戦火に焼かれるのを放っておけず、情報の漏洩を決断する。
朝栄は沖縄から移民とした渡ったサイパンで終戦を迎えた。連合国軍による雨あられのような空襲の中を生き延びたのは奇跡的であったが、戦争で親兄弟をすべて失った。朝栄もまた、ベトナムがサイパンの二の舞となるのを眺めてはいられなかった。サイパン時代に知り合った安南さんにオルグされ、得意の無線技術を使って情報をベトナム側に送る役目を担う。
そしてタカは、フリーダから朝栄に情報を受け渡す「伝令」として働く。タカは戦争に賛成でも反対でもない「戦争を知らない子どもたち」の一人である。しかし、実際に住民を巻き込んだ地上戦が行われた沖縄だけに生い立ちには影がある。両親はすでになく、異父姉の父親は米兵で、朝鮮戦争で戦死した。姉弟の親代わりを務める朝栄に誘われ、ばれれば逮捕覚悟の危険な任務につくことを承知する。
そう書くと、悲壮な覚悟みなぎる物語だと想像されるかもしれないが、必ずしもそうではない。タカの姉・民子は大学生で、「琉大の知花先生」に感化されて反戦平和活動に首を突っ込んでいる。そして、タカは知花先生の研究室に集まる学生グループと一緒に米軍基地から脱走する兵士の手助けをするという、これまたややこしい仕事も背負い込むことになる。彼らがB-52の射撃手(爆撃機の最後尾に陣取って、敵の戦闘機を機関銃で迎撃する役目)を見事に本土経由でスウェーデンへ逃がした後、米兵をとことん嫌ってやまないおばあ(祖母)が、民子にこう言う。「あの逃げたアメリカーかね。それは目(みー)の芯の立っちょーる立派な男さね。軍隊から逃げるのはなかなかできることではないよ。おまえもそういう男を探しなさい」
射撃手は敵のミグ戦闘機や地対空ミサイルが怖くてしかたなかった。恐怖のあまり搭乗中に幻まで見るようになった。だから、軍隊から逃げたのだ。「脱走兵こそ立派」というのは逆説的だが、軍隊は国民の命を守らないという沖縄戦の経験に裏打ちされた実感であり、それをうちなー口独特のイントネーションで語るさまがおかしく、また深くうなずかされる。小説に素直な明るさを加えている。日本を舞台にした(といっても復帰前の沖縄だが)貴重な「戦争レジスタンス活劇」だ。
日本復帰前の沖縄で、実際にそういう「スパイ活動」や「脱走兵支援」が一般人によって行われていたのかどうかは不勉強にして知らないが、小説自体は本土で米兵の脱走支援をしていたベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)の動きや、1968年11月にB-52が離陸に失敗して爆発・炎上した事故、1970年12月のコザ暴動など沖縄の戦後史に沿って進む。その中で、タカと姉の民子がこんな会話を交わすシーンがある。
「あ、もうすぐベ平連が来るわ、本土から」
「べへいれん、って何?」
「ベトナムに平和を! 市民連合」
「何?」
「だから『ベトナムに平和を! 市民連合』という名前の市民連合」
「わかった。つまり反戦平和だ」
「そう、それが来るんだって」
「何しに?」
「だから反戦平和よ」