若い世代の人には笑われてしまうかもしれませんが、「芸術」という言葉を聞くと、体の奥のほうでムズムズと、「爆発だ!」と言い放ちたくなる幼稚な欲求が渦巻いているのを認めないわけにはいきません。もちろん、かつてTVでさんざん流された、岡本太郎のあの有名なセリフです。試しに、40歳以上の人に「芸術は?」と、いくらか語尾を上げて矛先を向けてみてください。きっと3割~4割の人が笑いながら「爆発だ!」と言ってくれるはずなのです(ほんとかね)。
今回、『藝術とは何か』という、まあなんとも茫漠たるタイトルの本を読んでみるにあたって、きっとこのタイトルの構えがあまりに大きいからでしょう、岡本太郎の「爆発」を想起=誘発してしまったのです。
著者の福田恆存は、この本の中で一度も「爆発だ」とは言っていないのですが、しかし芸術というものを捉えるベクトルは、案外、「爆発」から近い所にいるように思います。いきなり本書の結論を書いてしまいますが(それをあらかじめ知ってしまうことで、この本を読む愉しみが失われることは一切ないと確約できます)、文庫にして150頁ほど、いたって薄い本ながら、いたるところに断言と啖呵が刻み込まれたこの本において、福田恆存はズバリ、芸術の本質とはカタルシスであるとして、次のように書いています。
【観客たちの顔をごらんなさい。おたがいにおたがいの顔を見ようとせず、また他人に自分の顔をのぞかせようともしない。劇場においてさえ、ひとびとは堅く殻をとざして自分のうちに閉じこもり、舞台から他人が得られぬなにものかを自分だけが手にして帰りたいと願っている。自分がいちばん上等なものを、いちばんたくさん、貯蔵庫から盗みたいともくろんでいる。(中略)現代では、芸術の創造や鑑賞のいとなみにおいてさえ、だれもかれも孤独におちいっている。(中略)人間はもともと孤独なものであります――なぜなら人間は情念に悩まされる存在であるから。自我意識は、嫉妬とか憎悪とか、その他のあらゆる情念とおなじに、一種の生理的なしこりのようなものであります。嫉妬や憎悪がわれわれを孤独においこむと同様に、自我意識もわれわれを孤独におとしいれる。われわれはこれに刺戟を与え、カタルシスを行わなければなりません。われわれを孤独から解放するもの――それが芸術であります】
いかがでしょう。ここでは「爆発」よりももっとしたたかな事が語られているように思います。「爆発」してしまえばなるほど窮屈な自我や情念から「解放」されるという意味で岡本太郎と福田恆存はすぐ隣にいるように思われます。しかし、「爆発」は、自我どころかそっくりそのまま自分という存在そのものも吹き飛ばしてしまうかもしれない。そこにあるのは無そのもの、なにかしら歓喜の感情に突き動かれる自分が不在になってしまうかもしれない。ところが福田恆存の言う「孤独からの解放」においては、近代的な自我のタガが外れながらも、なにかしら絶妙な自分というものがそこには残るのです。これを福田恆存は「ゼロ」と呼びます。
【かれらの精神は英雄として運動し、自己を消費し、自我の貯蔵庫をゼロにするために観劇したのであり、当時の劇詩人たちはその要求を満たしてやったのではなかったでしょうか。それが芸術のはたすカタルシスであります。健康な身体がつねにゼロの均衡状態を意味するように、精神もまたゼロの静止状態を欲しているのです。そして自由とはそれ以外のなにものをも意味しません。精神はゼロであるときにのみ、なにものにもなりうるのです。それは自己にもなりうるし、他人にもなりうる。ということは人間でありうるということではないでしょうか】
カッコいいなあ、と思います。ここで語られる「かれら」とは古代ギリシア時代の人々のことですが、かれらが自ら英雄になりたいと欲したのは、なにも虚栄心が強いからでもなければ目立ちたがり屋だったためでもなく、ましてや空気が読めないバカだからでもない(空気を読む、という行為そのものが存在しなかったでしょう)。それはただ、かれらがとにかく健康だったからなのです。湧き上がるエネルギーと、気持ちの良いその消費に身を任せること。けっしてなにも貯めないこと。ゼロにしておくこと。
先の引用の「自分がいちばん上等なものを、いちばんたくさん、貯蔵庫から盗みたいともくろんでいる」というくだりは、ミもフタもない言い方をしてしまえば、これは近代の批評家の態度そのものかもしれません。そこにあるのは加算的な思考であり、自我の貯蔵庫にいかに他人より(他の批評家より)多くの「盗品」を秘匿しておけるかが主要な関心事になり、結果、猜疑心や嫉妬心が渦巻いて、ますます孤独に陥るというわけです。