『藝術とは何か』は、福田恆存の主著として知られる『人間・この劇的なるもの』(入手しやすいのは新潮文庫です)の前に書かれ、その萌芽となった評論と言われています。近代以降の芸術の特徴を「視覚の優位」と見る福田恆存は、「それは見ることによって、対象を測量し、それだけのものとして位置づけし、自己を優位な地位に押し上げてしまう芸術」と断罪します。映画が槍玉にあがります。返す刀で、「演劇はあらゆる芸術の母体」というのです。「ドラマはタブローに対立する」「タブローは《見られるもの》であり、ドラマは《為されるもの》」ということになります。
福田恆存は手厳しく、近代以降において、こと芸術においては、自ら芸術家になること、芸術家であることに価値が置かれすぎている点を指弾します。芸術家とは何かしら尋常ならざる才能を持った生き物であり、であるがゆえに芸術家と鑑賞者の席は遠ざかるばかり、その関係は固定化するいっぽうだということになる。しかし福田恆存にとって芸術とは、芸術家と観客とのあいだにあるものでした。「少々陳腐になったたとえ話」としながらも、やはりこんな話を引用しています。
【『ピーター・パン』という童話劇のなかにティンクという子供が死ぬ場面が出てまいりますが、このときピーター・パンは観客席の子供たちにむかって、もしきみたちが妖精の存在を信じるならティンクは生きかえる、妖精がいるとおもう子供は手をたたいてくれと頼みます。子供たちはティンクを生かしたい一心で夢中になって手をたたく。これがもし映画だったら、たとえ子供たちが手をたたかなくとも、あとにくりひろげられる筋書はすでにフィルムにおさめられ、未来は映写機の中にしまわれているのです。子供はともかく、大人だったらばかばかしくて手をたたく気にもなりますまい。いや、子供にしたって、一瞬の気を逸したらそれまでだ。子供が手をたたくのを待っている舞台上のピーター・パン、それに応ずるように拍手する子供たち、そしてにっこり笑ってそれにこたえるピーター・パン――この呼吸は映画では不可能です。小説でもだめだ。それこそ演劇の独壇場ではないか。】
書き写しながら、「そりゃズルいよ、福田さん」と、映画贔屓の私は思います。しかし、なにがどう「ズルい」のかを説明しなさいと言われたら、シドロモドロになりそうだ。また、「映画とは筋書ではないし、未来は映写機の中にはなく、やはりスクリーンと観客のあいだにあります」と言ってみたい誘惑にもかられますが、これも残念ながら、あまり説得できる自信はないのです。
『藝術とは何か』は、徹底した近代批判の書でもありますが、近代という時代が、英雄なる存在を嘘くさく感じ、どこにでもいる卑小な人間を描くことを心がけてきたとしたら、そうした近代の芸術家たちを福田恆存は、「臆病なリアリスト」と呼んでいます。そして福田恆存が何よりも大切に取り出したのが、卑小さを描くことが誠実さでもあるような、そうした実体的な「現実」ではなく、ありのままの自分以上のものになりたいという「可能性」、もっと流動的で生命の鼓動そのものであるようなそうしたなにものか、のほうでした。
最後に『藝術とは何か』の「復刊」について触れておきましょう。中公文庫で最初に出たのが1977年ですが、文庫の「あとがき」は1950年5月に書かれており、とすると単行本もおそらく1945年、つまり終戦の年と、「もはや戦後ではない」という言葉が経済白書に使われた1956年との中間くらいに書かれたものであることがわかります。先に挙げた岡本太郎に『今日の芸術』という本があって、これが1954年の刊行で時代が近い。ベストセラーになった本(光文社文庫で読めます)ですが、「今日の芸術は、うまくあってはならない」「きれいであってはならない」「ここちよくあってはいけない」で有名な岡本太郎の本をはたして当時の福田恆存が読んだのか、そしてどう感じたのか、知りたい気がします。
そして岡本太郎といえば、「爆発だ!」と並んで有名な、「グラスの底に顔があったっていいじゃないか」という、ウイスキー「ロバート・ブラウン」のプレゼントに付いていた顔グラスのCMがありますが、これを受けてかつて金井美恵子が「あれを聞くたびに、“顔があって悪いとは誰も言ってないじゃないか”と言いたくなる」とどこかで書いていたのを読んで笑ったことがありました。うん、この岡本太郎の勢いもいいし、金井美恵子のツッコミも面白い。でも、そのツッコミには、福田恆存言うところの「孤独」に通じるイライラが相当、含有されているのだろうと思うのです。
福田恆存だったら、きっともう少し違うことを言うだろう。あのCMも見ていただろうし、いったいどんな言葉で返したかなと、そんなことを考えさせる『藝術とは何か』でもあるナ、と思ってこの本を読み終えました。