はっきり書いてしまえば、そこにはハラハラ・ドキドキのドラマチックな展開や、心を震わせるようなハートウォーミングな物語はない。魅力的な人物が颯爽とカッコよく振る舞うわけでもない。そういった見栄えのいい派手さは、ジャン=フィリップ・トゥーサンには、無縁だ。しかしそれでいて、面白い。読んでいる、その瞬間の愉悦は、まさに格別だ。なぜ面白いのか、詳しくはレビュワー・加藤信昭さんの書評を読んでいただきたいが、一言だけ、そう「エクリチュールの誘惑」なのです。
途切れることを忘れたかのような文体、その先には鮮やかなイメージの連写が次第にフォーカスされて読者の目に浮かんできます。そして、決して本性を明かさずに読む者の予測をひょうひょうと裏切り続ける登場人物たち…。
やがて、この不思議な浮遊感に満ちた小説は、トゥーサンだけが到達した唯一無二の技術の成果によるものだと気づかされるはず。ここまでくればもう、あなたは立派なトゥーサンマニアです。
もしかして、なんだか取っ付きにくいのかも、と思ったあなたへ。独特のトボけたユーモアもトゥーサンの魅力のひとつであることを付け加えておきます。もうひとつ、野崎歓さんの訳が、もうこれしかないでしょうというほどに、実に見事なものであることも。
ジャン=フィリップ・トゥーサン 1957年生まれ。ベルギー出身のフランスの作家。1985年『浴室』でデビュー。自身の作品の映画化に際し、映画監督も務めている。