「人間」という生物のありよう自体はさして変化しないはずなのに、「人間の育ち方」自体はわずか4,50年ほどの間で、かくもドラスティックに移り変わるものか。あるいは保護者の労働や生活のスタイルによって、かくも大幅に異なってくるものなのか、日本における「子育て」のスタイルの変遷を辿る本書には、そうしためまいを感じさせるような記述があふれています。たとえば、本書第4章での記述を紹介すると…。1970年代半ばになっても、東北地方では、「いずめ(いいづめ、えじこ)」と呼ばれる、尿を吸収させるために底にワラなどを敷いた大きなかごに赤ちゃんを入れ、上から布団でくるんで紐で縛り、昼間の農作業中はずっとその中に入れたままに置いておく風習が普通におこなわれていました。
「仕事をしている人の三〇-四〇%がいずめまたは行李、箱、つづらなどを使っていた」(89-90ページ)というアンケートの結果などは、現代では「虐待」とみなされかねない扱いが、たった30年前にはごく当たり前の「ルール」として通用していたのか、という複雑な感慨を抱かせるものです。
前述した櫻井よしこ氏の主張によれば、現在の日本では「軽視されている」という「子どものために親が自分を犠牲にするという価値観」が、実際のところ、現代ほど極端に重視されている時期は歴史上存在しなかったこと、それが本書の基本的な主張です。日本における「子育て」のスタイルは、家庭内および家庭外での親の労働が最優先され、子どもの欲求は後回しにされる「親主導」の子育てから、子どもの欲求を満たすことが最優先事項とされる「子ども中心」の子育てへと移り変わってきているということ。そして、現代日本の子どもたちとその保護者たちは、「子ども中心」のスタイルが徹底的に推し進められる「<子育て法>革命」によって翻弄されている、それが本書によって示される歴史および状況の認識です。この「革命」のただ中で、「保護者はどこまで子どもの欲求を満たしてやればいいのか」の上限となる基準が見失われてしまい、乳幼児の保護者の引き受けなければならない負荷が耐えがたいものとなりつつあるという本書の主張は、前述したような現代の「母親」に対して四方八方からかけられるプレッシャーを考え合わせるならば、きわめて切実なものであるといえるでしょう。
また、「親主導」から「子ども中心」に移り変わってきた「子育て法」を、「親子対等」へと変える道を模索する、という本書第6章における将来の目標の呈示もまた切実かつ魅力的であり、その目標を達成するために、著者自身の経験に基づいて紹介される具体的なルール、スタイル、テクニックにも、傾聴すべき内容が含まれているといえるでしょう。
しかし、1980年代なかばに主流化した「子ども中心の子育て法」の問題点を指摘するにあたり、現在に至るまでの凶悪少年犯罪の増加を重要な根拠とする本書の論述に対しては疑問も残ります。「少年犯罪の増加」と「子育て法の変化」との間の因果関係を立証する具体的なデータが示されないことも問題ですが、何よりも「凶悪少年犯罪の増加」を、「子育ての失敗の結果」として強調することは、結局、本書が批判しようとしているはずの、乳幼児の保護者に過大な社会的責任を負わせる子育て言説を、かえって強化してしまうものではないでしょうか。また、それは結局、子どもの健康や幸福や将来を人質に取るような形で、他者の異なる生のありようを否定し、自己のルールやスタイルを権威的に押しつけようとする「副読本」的な言説と、どこかで似通ってしまっているかもしれません。
では、本書がその出発点において提案していたような、他者のそれぞれの異なる生のスタイルを否定しないように、子育てをめぐるさまざまな負担を緩和するための普遍的なルールとテクニックを導入するという切実にして困難なプロジェクトは、具体的にはどのようにすれば実践可能なのか。あれこれと思い惑う母を尻目に、わが家の2歳児はジャンプしたり駆け回ったり転げ回ったりしつつ、見通しがたい未来に向かって、勝手にどんどん育っていってしまうのでした。